2012年3月29日(八段語録1636)

我が先祖


 母方が、金森という氏なのですが、その一族の流れが少しずつ分かりはじめているのです。原点は戦国にまでさかのぼるのですが、金森の名が世に知られ始めたのは、信長、秀吉、家康に仕え、飛騨高山初代藩主となった金森定近からであり、一族間の争いに巻き込まれるのを恐れた、大畑定近は、近江金森に移り、金森氏と改めたところから、誇り高き氏としての歴史が始まったようなのです。
 このような事を書き記しているのは、私の少年時代、母の金森家の一員として生活したところにあるのです。母の実家の金森家は、「岐阜県史」「龍ヶ崎市史」や、寺の記録などで補っていくうちに、先祖の五百数十年前の事柄が明確に理解できるというのです。この一族が、民百姓のために、頑張ってきた歴史であり、この先祖を辿っていくところに、自分の役割や、日本のこれからの行く末に対して、対応しようとする心が生まれてくると思っているのです。
 次の代の金森貞利という人物が、八十二歳の生涯をかけて、美濃・江州、関東、陸奥までと、一族を引っ張ってきて、今の仙台に定着するようになったというのです。この当時の人間としては、かなりの距離を移動して、波乱万丈な生き方をしたようですが、金森の一族を、この地域の為に残せたことに対しては、先駆者という事になるのだと思うのです。
 そもそも、仙台藩士になったのは、貞利の孫の彦左衛門の嫡男三之丞と二男庄右衛門という事なのです。この長旅をしてきた貞利は、侍より勉学、芸能の道が似合っていると考えられる静かな人であり、個性も強かったと伝えられているのです。そんな血筋が、私の中にも、静かではありますが、個性も強い自分を感じるのも、このここと故なのかと感じるものがあるのです。
 仙台藩時代は、八塚林香院に金森の菩提寺があり、由緒正しく墓守をしていたというのです。時代が戊申戦争の時になりますと、之孝は仙台養賢堂に馬で勉学に通い、明治時代には寺子屋を開き、村の教育に力を注いだというのです。之孝の孫、つまり私の母の父ですが、根白石村の教員や仙台通町の小学校の教員をしていたのです。さらに、剣道では六段を持ち凄腕であったというのです。
 そして、今の仙台が東北一の大都市に発展した要因の中に、仙台市、和泉市、宮城町の合併が上げられますが、数少ない合併推進派の一人として、議員であり、私の叔父の従之が私心を捨てて合併を推進したのです。今、叔父は9期も続け、議員を退いて、「社会福祉法人、幸生会」を設立し、息子従男が、地域社会に貢献しているのです。
 このように美濃~陸奥へと苦難と希望の旅をしてきた、戦国時代の静かなる武将貞利の子孫が、養子も取らずに、代々長寿で活躍してきたのは、一族の誇りであると感じるようになっているのです。