2012年3月18日(八段語録1625)

道安寺


 我が家の菩提寺の住職が亡くなったのです。親父が生まれた家のすぐ南側にあるお寺で、私の子供の頃よく遊んだものでした。葬式には出る事ができませんでしたが、お寺に赴いて、霊を弔ってきました。親父が青年時代まで過ごしていた土地であり、今は、親父の母と、親父が安らかに眠っている場所なのです。
 私にとっても、縁がある寺で、私の名前の「義道」は、理由はともあれ、無くなった住職の父親の名前なのです。この方の「書」が上手で、墓石に、あらゆる家系の人の名が、文字として掘られているのです。曹洞宗ですので、修行を重ねた人のようでした。その名前を、そっくり頂いたような印象の名前が、私であるという事になるのです。
 不思議な事に、私自身、仏門に入った訳ではないのですが、その名前の為なのかどうかわかりませんが、極真空手道を媒介にした修業の旅の連続になったのです。そのような意味では、名前を頂いたという事にもなるし、人生の生き方として、僧侶のように修業に励んだことにもなるのです。
 「義道」僧侶はどうあれ、私の人生を振り返ってみても、未成年で家出をして、世間の荒波にもまれたことになるのです。しいて言えば、世間の荒波が、今の私をつくったのです。親の脛をかじって、過ごすこともできたのでしたが、人生に対する高い意識から修業の旅に出かけたことになるのです。
 もちろん、母親は下宿業を営んでいたし、父は太平住宅の営業マンですから、安全で快適な生活は十分にできたし、楽しくのんびりとした生活さえ出来たのです。それが、最善であると思えなかった自分があるわけなのです。私が取った態度は、自分で人生に責任を持つという姿勢でした。自己責任を背負って立っているがゆえに、環境が良かろうと悪かろうと、関係なく、今の自分の姿があるのです。すなわち、いつの間にか気骨のある人格が育ち、幸福を掴むうえでの、準備を整えていったことになるのです。だからこそ、青春時代の修業が、私の生みの親となっているような気がするのです。
 青春時代の難行苦行が、やがて「為に生きる」という美しい生き方をしようとする土壌になったのです。心を優しく持ち、耐え抜くことを学んだのかもしれないのです。今の私は、定年退職して余暇を楽しむような、人生の演出では満足できないのです。高齢化の波が押し寄せようが、私が高年齢になろうが関係が無いのです。もちろんこのような動きは事実なのですが、この事実に直面し、動きを与え、興味を添えて演出してしまおうとするのも私なのです。
 この歳で、専門学校へ通うことなど、興業的な演出としか思えないようです。銀幕のスターのようです。人の注意を引くに相応しいのです。強い心で生きるためには、まして焦らず、苦情を言わずに生きるためには、出来る限りのこのような手法による努力も必要なのだと、自分に言い聞かせているのです。このようなチェンジオブペースが、いつかは楽しい満ち足りた生活を送れるのではないかと思うのです。