2012年3月15日(八段語録1622)

情熱


 年甲斐もなく、昨日受験して、ほっとしているのです。息子の勉強に対する姿勢を、とやかく言うつもりはないのです。生活の中で、何を重要視していくべきかを考えるだけでいいのです。また、私の生き方を、強制する事もしないのです。たった一度の人生ですから、思う存分、息子が悔いのない人生を送っていけばいいのです。そして幸せを感じれば、それでいいのです。
 私の場合、還暦を迎える日も迫っているという事で、深く根を下ろした興味を持つべきであると思えたのです。その矛先が私自身の人体ということなのです。ここに来て、人体は「何ぞや」と思うでしょうが、自分の身体に関しては、知らないことだらけなのです。六十年もの間、私の生命維持装置として働いてきたのです。その身体の生存ゆえに、精神は豊かになるし、生活が楽しくなってきたのです。
 そのうえ、青少年の健全育成という事では、地域社会に対して貢献もしてこられたのです。今までの人生を振り返ると、目的をあくまでも追求して、倫理道徳を堅固に保ち、武道精神で、自分自身を守り通したのです。そのような意味では、この生命維持装置の内容を知るべきであるという気持ちになったのです。ゆえに、自分自身を知るようにすべきであると結論つけたのです。
 ただ人生を過ごしただけでは、何も生まれてこないと思ったのです。自分が何か創造して、影響を及ぼし、感じ取らなければならないという気持ちにもなったのです。私の場合、人への関心が大いにあったのです。人間関係の中で、多くの事を学べると思えたし、会話する事がとても楽しかったのです。多くの人に生活に興味を持ったのも事実なのです。
 目を輝かせていた青春時代がありました。本当に熱中していたのです。その熱中する事に相応しい内容が、取りも直さず、極真空手であったのです。この空手に対する熱中度は、抑えることを知りませんでした。確かに、大会に出場することは、恐怖でもあり、不安が付きまとった事は間違いないのです。それでも、相手に対戦して勝負を挑んだことになるのです。
 バカみたいな話をするのですが、一年三百六十五日を、たった三分の勝負のかけるのです。その結果の報酬など願ったりしないのです。ただただ修業なのです。自分はどんな才能があるのか分かりませんでしたし、今も分かりません。しかし、熱中し続けることが私の特技であったのです。例え、教養があり、判断力があり、考え方が素晴らしくても、心を打ちこむものがない人は、かわいそうな人であると、勝手に私は思うのです。隠れた、自分の才能は、情熱を持って熱中して初めて開かれるものであると思えるのです。
 今日は、受験も終えて、のんびり緊張感から解放されています。明日からの人生への出発を、自分自身の身体の研究から出発するつもりなのです。そうであるから、昨日受けた受験は受からねばならないのです。そのような気持を持ちながら、一日を終えるのです。