2012年3月11日(八段語録1618)

3・11東日本大震災


 あれから、すでに一年が流れたのです。午後二時四十六分激しい揺れと同時に、津波が沿岸を襲ったのでした。消防団の立場の私は、消防署に駆け込み、対策室で指揮を取りながら、固唾を呑んで事の次第に目を奪われたのでした。上空からのヘリコプターの映像が、送られ、凄まじい勢いで沿岸市街地から田園を襲っていくのです。津波の先頭は、黒い悪魔の龍のようでした。全てのものを破壊して呑みこんでいくのです。小さく人々が逃げ惑う姿が映し出されていました。道路には車が渋滞しているのですが、車ごと次々と呑みこんでいくのです。
 別に今、映画のⅠシーンを見ているのではないのです。現実に起こっているのです。そのような事を考えながら、ヘリコプターの映像に食い入っていました。不眠不休の戦いが始まりました。電気もガスも暖房も何もない状態になりました。かろうじて、消防署は補助の電源と、ガソリンを使いながらの発電で動きを確保して、消防活動に当たったのです。一番に多かったのは、ビルに閉じ込められて身動きができないという連絡です。更に急病人の搬送で救急車はひっきりなしに動いているのです。更に、多賀城方面の石油コンビナートから火の手が上がって手が付けらない状態になっていました。
 そのような、大災害の序説の始まりが3月11日でした。そうして一年が過ぎた訳なのです。当事者の私としては、大災害の渦中にありながらも、救援活動で精一杯の歩みをしていたので、悲しみよりも、二十四時間体制の忙しさが襲っていたのです。大災害に備えていなかった分だけ、しいて言うならば、自然の猛威に高を括ってしまった分だけ、死者が多かったのだという印象なのです。大地震から数十分もありながら、逃げ遅れた人達が多く犠牲になったのです。残念な結果になってしまった事に、ことさら悔しがるのです。何度か、この大津波の前に地震があり、避難の指示を出していたのですが、結果数十センチの津波でしかなく、今回もそのようなものだというと思ったところに、このような大災害として人命を奪われるという現象が起こってしまったのです。
 今日は、被災地の仙台ではなく、広島にいるのです。テレビの報道は、東日本大震災で一色という内容でしたが、悲しみがこみ上げてくるのです。それも被災地を離れての、映像視聴ですのでことさらなのです。この震災で一般市民が取った態度は、優柔不断なのです。的確な行動が取れなかったのです。それで、津波を目視してから、その大きさに恐怖心を生み出し、正しい判断が出来なかったのでした。恐怖心が勇気を鈍らせ、外に出て高台へ這い上がる勇気を持てなかったし、遅れてしまったのでした。大津波は恐ろしいという事を、身を持って体験した人達も多いのですが、それ以上に犠牲になった人達が多いという事を考えると、胸が痛むばかりでした。