2016年12月31日(八段語録3012)
極真精神が心の支え

大晦日になりました。今年の、我家の年末の作業は、下宿棟の道路に面している敷地の部分をコンクリートで整備することでした。資材の店からセメント・砂・川砂利を購入しました。二日間に渡って、作業を続けました。さらに、外の洗い場が破損しているので、セメントで修理です。一度も、セメント工事を行ったことがないので、ネットで動画を見て、作業の手順を学びました。セメントと砂を左官用の容器に入れて、十分に混ぜます。それから、水を入れて、捏ねるのです。その後に、捏ねたセメントに、砂利を入れて、敷地に引くという手順です。二十メートルあるので、一日では終了せず、二日間がかりとなりました。プロの左官屋さんとは腕が違いすぎますが、それでも、やり遂げたということです。最後は、セメントの表面をコテで平らにしたのです。それでも、綺麗な表面にはならないのです。それでも、熱中して作業を行ったものですから、充実していたのです。今年の最後の作業になりました。
さて、年末のですから、妻も年始のおせち料理を作ったり、大掃除をしたり、寸暇を惜しんで、家事をこなしていました。もう私も妻も、子供達に手伝いを要求することはないのです。家のことは、気がついた人が、自主的に行えば良いということです。子供達に押し付けようとは思わないわけです。親父が家の為にする事、子供達が、どのように家の手伝いをするかということは、自らの判断で行えばいいという、発想をするのです。我が子が小さい時は、嫌々でも手伝わせました。しかし、もうこれからは、どのように家と関わるかは、子供達の判断なのです。親が干渉することではないと割り切っているのです。それだからといって、ギクシャクするわけではないのです。人生は、一人一人が、主人なのです。その中で、どのようにするかは、親としても本人達に任せるということが、大切であると思っているのです。私自身も、親の手伝いを強制されたことはないのです。親は、せっせと自分の仕事をしていました。
ところで、私は、自己犠牲でしか公的精神は養われないと思うのです。自分で版図を築かなければ、理解できないこともあるのです。道場についていうならば、道場生が多くなればなるほど、また、道場の所帯が広がれば広がるほど、私自身の自己犠牲の範囲が大きくなります。それに伴って、すべきことが多くなりました。家庭でも、道場でも、手段や方法をもって、運営するとなると、義務感が多くなり苦痛が生じます。貢献するということは、自己犠牲がつきものです。犠牲になるということは、気持ちがついて来なければ、嫌なことです。
それだけに、責任を持ったぶんだけ、心で貢献しようと思うのです。それ故に、犠牲になるということは、純粋でなければならないのです。そうでなければ、金の為にとか、嫌々では、人に笑われてしまいます。自己犠牲とは、喜べなければ、しないほうがいいのです。それ故に、何かの為に生きるという気持ちを育てるということが、大切であるということになるのです。
そのような事で、私の基本的な姿勢としては、第一に、家族全体の為に生きているし、道場全体のために生きているということです。いつも、心に家族一人一人が存在しているのです。その為に行うことは、苦痛でも何でもないのです。道場に間しても、同じです。
第二に私は、家族にたいしても、道場生にたいしても、模範となるべき存在でなければならないと思うのです。第三に、家族や道場に対して、後ろ姿で、指導できなければならないということです。そのように拡大していかなければならないのが、私の役割ということになるのです。私の本性は、家族そして、道場生が共に分かち合うことができる道を行きたいと思うのです。それ故に、高次元な願いを持ちながら、地道にコツコツと積み上げて、発展させたいと思うのでした。このような姿勢を、私は極真精神であると思っていうるのです。紅白を聞きながら、今年を終えたのでした。