2016年12月26日(八段語録3007)
稽古は、心身を洗う

日々、稽古を行う事は、道場生にとって、大変な決意が伴います。自分に対して、向上心がない限り、稽古は続かないのです。若い時には、向上心と体力がありますから、ハードルは低いのです。しかし、年齢を重ねるにつれて、乗り越えるのに、困難に思うようになるのです。それ故、若い時には、ハードルを超えてきたという、実績を持たなければ、高齢なってから、稽古が途絶えてしまうのです。極真空手を続けていると、日々の稽古の必要性を痛感するのです。それも、一生通して貫くのです。理由は、稽古には、日々の生活をゼロベースに正すという役割があるのです。一日を終えて、就寝すると、新しい次の日を迎えます。睡眠だけでも、新しい朝は迎えられそうなものです。極真で、稽古をするという事は、改めて、原点に立って、次の日を迎えようとする心を、自我に意識づけるのです。そうでなければ、日々の習慣ならぬ惰性を引きずってしまうことになるのです。それは、武人として、避けたいことです。
さて、一日を過ごすのです。そうすると、あるべき自分と、現実の自分が、あまりにも違いすぎるということに気づくのです。その状態を冷静に分析して、修正したり、反省したりするのです。この作業を自分自身でするのは、大変な労力がいるのです。そこで、道場を活用して、自分自身をさらけ出すように、稽古に専念するわけです。汗が流れます。涙も、ちょちょぎれます。そして、それなりの打撃も受けるわけですから、痛みも感じるわけです。時間が経つにつれて、心が空っぽになっていくのです。そうするうちに、神聖な気持ちが湧き上がるというものです。そうなると、自分に対して、どのようにすべきかという事が、過去の反省として蘇るのです。自分自身、どうにかしなければならないと、思えば思うほど、稽古で私自身を見つけるのです。まさに、一連の流れの中で、人生の戦いう姿勢を作るのです。戦闘を準備が出来上がるというところまで、心は引きあがるものです。
ところで、私自身を、稽古で自分を何とかしなければならないと思うのです。まだまだ向上心の塊という事です。闘いは、自分自身に対してですから、習慣性と良心との対決になる訳です。稽古では、比べ合って戦うことになるのです。そして、いつの間にか爽快感と共に、良心が勝つのです。実に気持ちが良いのです。稽古という神聖な場所で、良心が勝つだけではなく、生き生きしてくるのです。相手の道場生が、自分を高めてくれるのです。もし、後輩に対しであったら、懇切丁寧に、指導します。同じレベルであったら、切磋琢磨です。さらに、先輩ともであったら、良きものを吸収しようと思うのです。全てが、自分に振り返ってくることだらけなのです。それだけに、道場生は、敷居が高いと思うときでも、ハードルを超えて、道場に顔をだすべきです。最悪見学でも良いのです。
結論ととして、私達は、意義ある人生を送るために、稽古は必要です。生きるか死ぬかという境地を通過するという事が、自分自身を洗ってくれます。それも、神聖なまで清めてくれるというものです。道場は、話し合って、解決するところではないのです。死ぬか生きるかという気持ちを味わうのです。正しい道を歩む時に、一瞬の隙が、生命取りという事です。やるかやられるかというものすごい緊張感を全身に漲らせる事が良いのです。
自分も鍛えているけれど、道場生の皆も鍛えているという共通認識をすることによって、未来の自分の人格を求めるのです。研ぎ澄ませていくということであれば、稽古の役割は全うされたようなものなのです。