2016年12月25日(八段語録3006)
極真空手は愛情充足のための人格完成

誰もが、道を極めるということは、大切なことです。私も、道を極めようとする事を、青春時代から追い求めてきました。その意識が、何か悟りらしきものに出会うのです。その悟りらしきものに出会う事を、積み重ねてきたのです。結果、妻に出会い、子供達にも恵まれました。多くの先哲にも、指導を受けたことにもなります。人生を考え始めてから、極真空手を継続してきました。人として、健全な人生を歩むことができました。中途半端を、願わなかった私の気持ちが、叶ったということです。人として誰もが、行くべく当たり前の、人生をすごしたことになっています。別に特別な生き方ではないのです。しかし、我が子供達の手本にもなったのです。それだけでなく、道場生を指導する教本にもなっている訳です。培ってきた極真空手の修行での悟りが、道場生を導くのです。それだけでなく、極真空手の理想を指導するのです。また人として、どうすべきであるかという回答も提示するのです。もちろん、道場生は、無限大に答えを得るのです。そして、矯正されながら、健全な人生へと、前に進むのです。
極真空手の目的は、第一に、人間として、一人一人が、人格を形成する事です。個性を最大限発揮するということです。人は、十人十色のです個性を持っています。その個性を、発揮させるという事が、目標なのです。誰もが、人生を最大限に、生きるという権利を持っている訳です。その個性を生かすために、代表師範として、標準タイプの個性を提示するのです。実際の生き様を、極真会館の道場というベースの中で、表現する訳です。もちろん、六十三歳になった年齢を見るというのは、若い人にとって理解できないのです。それだけに、段階のレベルの道場生の姿が、目標になるのです。ちょうど、私の周りを取り囲む垣根のように、白帯から、有段者の行程を、弟子たちによって、提示できるのです。そして、私の一歩も手前の、師範や指導員に教育を受けるのです。さらに、先輩を見る訳です。先輩が、しっかりとした指針になるというものです。これが、道場の道場たるゆえんなのです。それだけに、代表師範の日々の戦いは、真剣そのものという事です。
極真空手の目的は、第二に、道場生一人一人が、充実した生活を送るという事です。早稲の野菜のように、温室栽培というわけにはいかないのです。世間という荒波に揉まれるわけです。試練はつきものという事になります。穏やかな日々だけではないのです。世間は、猛威を振るって、襲いかかるということが、しばしばあるのです。経済的困窮はもちろんの事、ありとあらゆる試練が口を開けて待っているのです。それに対して、しっかりと、盤石な柱にならなければならないのです。その環境で、人間として、充実する心が満たされ、最大の幸福を感じる事が出来るように、レベルを高めて生きようとする事です。道場生一人一人が、豊かな精神を持ち、愛情に溢れる環境を作って行くという事です。これを、未来に見つめるのではなく、日々の生活の中で、如何に味わって行くかという事が、極真空手の目的ということになります。環境を整えて、どんなに貧しくても、あらゆる課題が押し寄せようとしても、ビクともしない主体性を築くのです。
結論として、どのような社会環境であるとしても、負けない極真魂を磨くのです。理由は、社会環境は、決して甘い環境ではないのです。どちらかというならば、優しくは迎えてくれないのです。それどころか、純粋な若き魂を飲み込んでしまうのです。まして、人格の基準、愛情の基準は、見当たらないのです。この基準を、極真空手が導き出すという覚悟をなのです。そのために、また代表師範の闘いは激しさを増すばかりということです。生き様が手本にならなければならないという決意なのです。日々の生活に緊張感が漲ってきます。この極真空手を通じて、本来の愛情あふれる人間性、そして、強靭な肉体を作って行くということに、余念がないのです。極真空手という武道を通じて、本来の人の道を追求するのです。追求するには、絶えず見本を示していこうとするのが、代表師範としての、私自身であるという自覚をするのです。それ故に、極真空手を中心に据えてた生活が重要であると主張するのです。