2016年12月23日(八段語録3004)
「共に歩む道」を選択する極真会館宮城県本部

家族と共に、クリスマスパーティーに参加してきました。クリスマスソングが、街に流れます。もう我が子供達も、大人ですから、プレゼントをねだられることもないのです。ちょっと寂しさを感じるのです。それでも、孫の誕生と共に、一歳半の士紀雅が、物心がつけば、毎年忙しくなるのです。そのような事を考えながら、家族で、仲良く過ごすのです。有難いという事です。家族という、理想が私にはあります。道場の理念が、家族にある事に、生きがいを感じます。当たり前に、家族という絆を深める訳です。という事は、私自身、お爺ちゃんとしての、権限があるのです。父母としての権限も兼ね備えています。そして、妻に対しては、夫ということです。生きている人生で、しっかりとした、存在位置を維持しているということです。まだまだ、人生を切り開く、愛情の原動力としての家族を守っているのです。
さて、 最近様々な先輩と会う機会があるのです。色々な先輩がいる事を聞きました。現状を維持して、過ごしている先輩、正しいという事を、果敢に進めようとする先輩、過去だけに生きている先輩、あらゆる事に困窮している先輩と様々です。どの先輩にも言えるのですが、老いて、存在の権限と立場が、無くなるように、狭まっているようです。かつて、若き日に出会った勢いは、ないという事です。年齢が、足かせになっていたりします。それも、しっかりと経済を見出すことが出来なくて、不自由なのです。また、年金生活ができる先輩は、まだ、ましな方です。生活保護に頼らざるを得なくなっている先輩も、いるのです。
それでも、先輩達だけでなく、世の御老人は、平均寿命が延びている昨今なのです。老後を、どのように生きるべきかという課題は、突きつけられます。何故ならば、私自身、還暦を越えて、三年以上にもなるのです。年齢だけは、先輩に追随して行くようになっているのです。
ところで、今の私はというならば、若き日の時と同じように、修業の道を極めようとしているのです。生活レベルに関しては、深く考えません。度外視状態です。それが、可能なのは、極真という道を、先駆けているからという事でしょう。というのも、この道を、私の後についてきて、極めようとする弟子がいるからなのです。不思議に、かつては、あれほどまでに、厳しい修行を重ねて、ここまできました。その修行の後を追って歩んでくれる弟子が、周りを取り囲んでいるのです。私の場合、恐れ多くも、総裁のカリスマ性が守ってくれたのです。そして、この道を歩み続けてこれました。そのようなカリスマ性は、ブランド力を持って、傘に入って、活用したのでした。それだけに、独自に「共に歩む」という戦略を固めてきたのです。確かに、私はというならば、弟子に守られているのです。それだけに、弟子を守り抜くという姿勢は、人一倍強いわけです。 残された人生、どの先輩とも、違った歩みをするつもりなのです。敗者のように、弱い歩みは、しようとは思わないのです。
人生を開拓してきたのは、私ですが、擁護してくれたのは、弟子達という事です。それだけに、弟子達を守り抜くのです。困難を意に介さず、突き進んでいる弟子が、多いのです。
今まで覚悟して立った私が、抱いている望みを、弟子達が誇ることが出来るように、日々を歩むだけなのです。これからの私の歩みはというならば、極真空手が,残したい伝統を、開拓して行くのみなのです。この年齢でしかできないことは多いのです。後輩に対して、盤石な基盤をつくるのです。誰もが投げ出されるような組織は作らないのです。お互い助け合うことが出来る極真会館を目指そうとするのです。