2016年12月20日(八段語録3001)
日々の鍛錬は燃える生命

日々を充実させる為に、稽古は毎日必要とするのです。肉体と精神を極限に至るまで追求します。それが、日々の日課になっています。稽古をしないと、心にも体にも老廃物が、溜るように思うのです。このような環境を、修練の結果、導き出しているのです。生活の原点は、稽古の連続から生まれるという概念を、持つに至っているのです。稽古で磨いてきた、心身の接触点が、日々の生活であるという観点に立つです。というのも、ほっておくと、生活が習慣と惰性に引きずられるのです。あるべきであるという理想の自分と、現実の自分の隔たりを感じてしまうのです。この隔たりを埋めようとするのが、稽古という事にしているのです。日々、自分の意思と反対の方向に、引っ張っていく力が働くのです。それを修正し、反省もするのです。自分自身では、到底できないので、稽古という手段を使って、汗を流す事によって、自分を取り戻すという作業をするわけです。つまり、心と体の安息を求めようとして、稽古に集中するわけなのです。
まだ、身体障害者にもなっていないのですが、自分自身を、正常に戻そうとする気持ちが強くなるわけです。これが、稽古をしていく、動機になっているのです。それだけでなく、日々の成長を期待して、ブログを書き続けるのです。先回で三千回のアップを果たしました。
ちょっと過去のブログを覗くと、自分の未熟さを感じてしまいます。それだからといって、いま成長しているかというならば、クエスチョンなのです。稽古もブログも、自分の習慣と惰性を打破して、良心のままに生きようとする、力に変えるのです。その努力が、安息をもたらすという方法を、見出したという事なのです。そもそも、体を動かしてから、考えようとするのです。それだけに、稽古の一連の流れで、習慣と惰性に対する、戦闘準備をする訳です。その結果、知的にも整理しようとブログの表現にまで至るのです。自分の姿勢は、真面目なのかもしれません。それだからこそ、極真の道を極め、続けてきているのかもしれないのです。
ところで、稽古は、誰かに対して、戦うというのではないのです。相手がいるかというならば、組手では存在するかもしれませんが、対する相手は、自分自身という事です。自分の習慣と惰性に、激しく挑む訳です。そして、自我を見出すのです。色々比較するのです。そして、何が意義のある生き方なのかという事を、見出す訳です。それも、稽古で、わざわざ生きるか死ぬるかという、限界状況まで追い込むのです。最後に残る自分が、素晴らしく思えるようにするのです。結果、稽古という神聖な基準において、良心が生き生きしてくるのです。人生を意義あるようにする為に、やるかやられるかという、自分の一瞬の隙が、命取りという境地に入り込むのです。稽古はまさに生死残る境地という事を、通過するのですから、その事が、話し合って自分の方向を決めるという、感覚ではないのです。やるか、やられるかという、極度の緊張のレベルを作って、全身を身悶えさせるのです。ここまで、心を高揚させないと、マンネリ化へと、日々の生活が、陥ってしまうという発想をするのです。
この事に関しては、あまり、追随したくないという事にもなるかもしれません。自分を鍛えるのという修行をですから、求めてきた事なので、納得しているのです。そのような稽古で、生きたい感情を持った人間として、正しく生きようとする心を大切にしようとするのです。
 私たちは意義ある人生を送るためにも、生きるか死ぬかという境地を、通過する稽古が、自分を正してくれるのです。組手は、まさに生死の境ということになるのです。そこを基準とすると、話し合って組手をするなんていうものではない。やるかやられるか、自分の一瞬の隙が命取りという境地になります。ものすごい緊張が全身をよぎるのです。自分も鍛えてきたけれども、相手も強いのです。そのような中、私たちは、お互い組手で、生きた感情を持った者として一心不乱稽古で、相手と自分の心情が、一つになっていくのが感じ取れるのです。そして、稽古で勝ったとしてもおごらず、負けても腐らず相手に対して、感謝しながら未来の自分の人格を、求めていくようなことにするのです。