2016年12月18日(八段語録2999)
極真精神の成果

日々の生活の土台は、食事を摂ること、寝る事です。生活だけを重視するならば、それだけです。人類共通ということです。これが生き甲斐という人は、もちろん多いのです。これに、嗜好品が入ります。それだけでも生きていけるのです。ところが、極真の修行を続けると、衣食住だけでは、満足しなくなるのです。当然、多くの人は、良い思い出を、残そうとするのです。アルバムを作成する事も、一例なのです。また、日々の生活を表現するのに、文章にしたためたりもするのです。心の表現を絵画に求めるたりもするのです。それは、衣食住を超えた世界を持つのも人間という事です。私の場合、極真の修行をしていくうちに、武道精神に共鳴したのです。どのように生きていくかという、高度な課題を抱いてしまったという事です。より、質の高い、精神態度を目指したという事です。食べることよりも、寝ることよりも、贅沢にも、精神を高め、それによって、心の満足する、生き方をするという目標を、求めたことになるです。
かつて、極真精神という事で、自分自身の成功の事を、考える事を目指したものです。大会に出場して、名声をあげるとか、後輩に尊敬されるとか、様々な成功事例を求めようしたものです。それがいつの間にか、発想が転換してしまっていました。個人としての成功よりは、大きな目標に対して、個人を投げ打って、支える事がいかに重要であるかという事を、理解するようになったのです。そんな馬鹿げたことはないと思うでしょうが、自分を礎にして、他のために生きるという選択をするのです。このような態度で臨んだ時、多くの人から、歓迎を受けました。俗にいうならば、利用されっぱなしということです。誰から見ても、お人好しなのです。そして、組織が関わってくるとしたならば、小間使いの良いところです。それでも、個人を投げ打ってという、精神は貫き通したのです。この精神がなければ、手塚会長と共に、歩めなかったということです。そして、その精神を持ったならば、「負けるな」ということです。絶対に負けてはならないという、気持ちだけが残ったのでした。
ところで、そのような小間使いの道を、歩むということは、何があっても勝たなければならないという発想です。叛逆するならば、それでおしまいです。一から百まで、全てにおいて、優れなければならないという、発想を持ったということです。個人の修行に置いても負けないのです。組手はもちろんのこと、礼節において、さらに、指導においても、勝つ事にこだわるのです。小間使いでも、最高の小間使いを目指したのです。手塚グループに於いての最高の貢献なのです。会長を支えるという事において、どの師範よりも、精神的にも経済的にも支え続けてきました。総裁は、王者として、極真の世界を、切り開いてきました。私の場合、小間使いとして、会長を支え続けたのです。それは、私の人生において、恥とも思わないのです。王者として、勝ち続ける人生も大切でしょうが、支え続けるという人生も、味があると思ったのです。苦痛があり、困難があるのは同じです。王者として歩む事も、支え続ける事に対しても、同じ価値であると思えたのです。
そのような事で、私の極真精神の生き方は、宮城県本部の代表師範として、支え続ける道を選択したのです。これが、私にとっての、極真精神であるという事です。この精神を、途中で投げ出す事はなかったのです。自分が肥料になるならば、多くの弟子が、極真精神を指導する事が、出来いると思ったのです。それは、二十年を過ぎて、実っているのです。他人が見てようが見ていまいが、立派な弟子を作るために、誠を尽くしたという事になったのです。私の姿を見て、多くの弟子達がついてきてくれました。それ故に、弟子達に、全てを委ねる事が出来るように思うのです。極真精神で最後の勝利を、勝ち取るという事は、多くの弟子達に、私の姿勢を示す事によって、次の世代へと繋がる道が、できたという気持ちなのです。それは、小間使いのようでありますが、決して、会長を裏切らなかったという実績を、積む事が出来たという事です。何か負けたようではありますが、この生き方が、私には適合していたと、言い聞かせているのです。