2016年12月17日(八段語録2998)
極真空手は社会貢献を目指す

入門する時の動機は、様々です。イジメを受けているからとか、不登校になったとか、強くなりたいという動機が、多いようです。それが、歴史的伝統を積み重ねてきた空手道によって、解決を目指すのです。それだけではなく、極真空手道によって、人して成長するのです。積み重ねてきた伝統は重いのです。そして、極真空手の伝統は、人の道を説きます。社会に役立つという道を、道場生が目指すわけです。最近、道場を眺めると、あらゆる年齢層の人々が集まっています。そして、極真空手の伝統を学ぶのです。最初に礼節から始まって、技を身につけます。同じことの繰り返しの中から、自然に身につけるようになるのです。
そして、道場生の大半の人は、自分の理想とするところまで、至るように修行に励むのです。
それだけに、修行に対して、真剣になるのです。それは、決して失望していないという事を、稽古の中で、感じ取るのです。それは、空手道が、理想を満たすのに、相応しい修練であると確信するからなのです。
さて、この修行の中で悟ることは、この社会の現状に甘んじるのではないという事です。現実を受け止めならが、空手道で学んだ精神を、現実の社会に良き影響を与えていくのです。日々、努力をしていくという事になるのです。道場生の中には、極真空手の指導者になる道を選択する人もいるでしょう。また、自分の能力を活かして、会社に勤める人もいるのです。
それでも、修練は続くという発想をするのです。自分がいかなる生涯を送るかという事を、稽古の中で、日々問いかけながら、修正をするのです。稽古は、習慣性を打破する役割を果たして、日々新鮮な気持ちにさせてくれるのです。精神的強靭さを、身につけるようになのです。多くの人に手を差し伸べて、寂しい人々を助けていくこともするのです。無力な人々に、力を与えることもできるのです。さらに、未来に対して、希望を提示することができるかもしれないのです。そのような極真空手である事を、深く考えて稽古をするという事になるのです。
ところで、極真空手は強さを求めます。誤魔化しの空手道ではないのです。動きがどうであるとか、華麗であるとか、もちろん考慮されるべきです。そのことが、結果、相手を倒すという結果が伴わなければ、意味をなさないという発想なのです。まず、結論が「倒す」というところにあります。それも、武器は、四肢五体ということです。その方法をあらゆる能力を駆使して、日々の稽古で磨く訳です。もちろん、ただ強さをだけを追求するばかりではないのです。どれだけ、結果として、社会に役立つかということも、願い求めるのです。極真空手は、人として、理想を果たすための手段として、最強を目指すのです。稽古はというならば、肉体を通して、理想実現能力を高めていくための地道な努力という事になる訳です。汗をながし、時には涙を流しながら、自身の、希望的刺激を全身に巡らせ、実践するための準備をするのです。
 従って、極真空手を学ぼうとする道場生に対しては、確固たる主体性を持つように指導する訳です。ただのわがままにならないように、理想となる理念を道場はしっかり掲げるです。もちろん、道場の理念と合わない道場生に対しては、留めるのではないのです。そのような人には、別な道場へ行くように進めます。しかし、残って、この理念と共に、生涯を重ねていくという道場生に対しては、惜しまない指導をするのです。そして、稽古によって、人格を磨くのです。自分は世の中に役立つ人になろうとしているのか、これが、重要な問題になるのです。極真空手を通じて、道場生の闘う姿勢が問われるのです。少なくとも、稽古する道場生は、自信をもって、自分の周囲を強調せしめようとする、人格を身につけなければならないという道場の方針なのです。それ故に、社会貢献を高らかに掲げる道場なのです。