2016年12月17日(八段語録2997)
極真精神の伝統

極真空手は、フルコンタクトの直接打撃です。痛みを肌で感じて、試合も行われるのです。
誰が試合を観戦してみると、武道精神が漂っているのです。真剣勝負が会場を覆うのです。
全日本空手道選手権大会に出場するとなると、相当な修練を積み重ねて、地方大会で優勝しなければならないのです。そのため、稽古は真剣そのものなのです。それでいて、私達はプロではありませんので、ファイトマネーという概念は無いのです。あくまでも、稽古の延長にあるわけです。日々の稽古は、平坦ではなくなるのです。選手一人一人は、誰もが想像することができないほど、自分自身を追い込むのです。それだけでなく、自分自身を目標に向かて、刺激するのです。また、日々反省しながら、自らを省みるのです。何の見返りがあるのかというならば、大会で勝利して、名誉と自信が残るのです。その名誉と自信は、この道以外には何の使い道もないのです。それでも、闘いに挑むのです。そうして、人生の厳しさの一旦を感じる事によって、人生に役立てようとする訳です。
さて、この武道精神は、社会に浸透するのだろうかと、疑問が出てきます。これも、一般的発想であるとするならば、無理であり、無茶な事になる訳です。それでも、この極真精神を世の中に広げていく事に、集中するのです。私の「広い門ではなく狭い門空手が入る」という発想が頭をよぎるのです。この精神の目的のために、あらゆる努力を積み重ねているです。これは、師範としての私の役割なのです。たとえ一人になったとしても、この極真精神は、残すという信念があるのです。それにしても、熱心なのです。今、スポーツといえば、多くの子供達の夢は、野球とかサッカーが多いようです。それでも、プロであるがゆえに、影の部分には、ふたをします。どれだけ多くの選手が犠牲になって、捨てられるのです。
華々しい影には、闇が多いのです。その事も含めて、私達はプロという選択ではないのです。
生涯、極真精神では貫くという姿勢を堅持しようとしているのです。その目的は、正しい事であり、生涯に渡って役立つと思っての、活動なのです。
ところで、この極真精神の伝統を広めようとする活動を考えます。まず、私達が指導している極真空手の質であります。世間はともかく、入門してくれた道場生が、納得するものであるかという事です。この内容の充実に関しては、今の指導者が答えを出してくれているのです。二十数年の間、私と共に歩んでくれた弟子ばかりです。極真精神共に技術を兼ね備えてくれているのです。それも、一年ではなく、十年でもなく、二十数年の間、共に歩んでくれています。そして、彼らの人生はというならば成長しているのです。誰が見てても、社会のリーダーに、相応しい気質を身につけているのです。しっかりと家庭を守り、社会貢献を貫いているという事です。私が指導受けたレベルと、一致する道を現在も歩み続けているのです。どの指導者も、ギャンブルに溺れ、離婚再婚を繰り返していないのです。悪態をついて、社会に迷惑をかけるという人格ではないのです。指導者ばかりでなく、そのような弟子達が何千名も排出されているのです。
このようにして、極真精神の伝統は、広く世間に根付いていくのです。座標軸を極真精神に置きましたので、この道が一番正しいと断言する訳です。もちろん、他の道を否定するものではないのです。中には、きれた蛸のようにして、自分で道場を立ち上げた人もいました。それでも、決して邪魔しようとは思わないのです。理由は、私に対する自己反省という事もあります。また、本物を目指すに相応しいかという、物差しにもなります。内外ともに負けているようでは、話にならないのです。それは、私のプライドに傷が付くというものです。そんな事、こんな事を踏まえて、極真精神の伝統を確立すると同時に、普及していこうとするのです。そのためにも、世間に対して、決意を持って、新しい方向を提示しなければならないのです。その為に、日々極真精神の伝統を母体として、自己管理に余念がないのです。発する伝統が、偽物であってはならないという信念なのです。そのような活動は体系を整えて、今日も最前線なのです。