2016年12月17日(八段語録2996)
極真空手における精神態度

極真空手の稽古を長年続けて、道場の基本稽古を、大切にしているのです。また、先輩から伝授してもらう稽古法も取り入れるんです。自分で工夫をしながら、稽古もするのです。
ウエイトトレーニングは、当時珍しく、二十代で取り入れました。プールでのトレーニングも、浮力を使って技の、正確性を極めていこうとしたものです。この年齢になっても、いまだに、飽くなき挑戦です。さらに、アップルウォッチを使って、心拍数、カロリー、時間の設定を行います。ITを駆使して、運動能力を高めようとするのです。また、イヤホンから流れる音楽を活用するのです。エアロビック感覚で、飽きる事なく、稽古も続けているのです。それは、稽古にメリハリを付ける上で役立っているのです。それで、稽古時間の確保をして、習慣性を打破するのに、日々努力という事です。もちろん、色々なトレーニングの工夫をするので、変人扱いされるということもあります。それでも、日々変えようとするのですから、挑戦の連続にしている訳です。
さて、私はどのような作戦を、稽古に対して行っているかということです。世間一般のトレーニングと、同じ事をするという、態度ではないのです。何か、ひと工夫をするのです。
それは、向上心から由来すると思っています。さらに、人生の切り口を。極真空手に据えた時から、それに関連する事に対する好奇心は、かなりのものです。気持ちの中での判断は、良きにつけ悪しきにつけ極真なのです。疑問もあります。動きだけを重視する、スポーツ空手に対しては、辛辣です。東京オリンピックにおける空手種目も、ルールの改正は必要であると考えてしまいます。動きだけを見ると、中国武術の方が、より鍛錬されて、華麗にみえてしまいます。何か、ちょっと違うような気持ちです。力の論理で、寸止め空手がオリンピック種目になっているという事に寂しさを感じます。武道空手を目指している極真であればこそ、感じる事かもしれないと思っています。
ところで、人生を振り返ることもなく、私の生き方の戦略は、奇襲作戦が多いようです。広い門を目指すのではなく、狭い門を見つけようとするのです。もちろん、可能性があるかどうかは検討します。それでも、無茶はするのです。自分に尋ねて見ると、世間一般の生き方は、不条理であれば、拒絶するようです。「酒を飲まない。タバコをすわない」などということは、その典型例でしょう。誰もがやっていそうだから、やらないということなのです。
かつて、このような迎合しないことが、今の社会では当たり前に、分煙であったり、宴会で酒を飲む人が少なくなったりということなのです。昔は、白い目で見られましたが、今は普通なのです。その根底には、世間と同じ事をやっていたらという気持ちです。同じ結果しか現れないであろうという観測からなのです。必要以上に、誰もが行っている時に、やらない事を進めていくのです。常識を覆すのですから、それなりの反感は覚悟という事です。それは、些細なことでも平坦な道ではないという事になります。
結論として、誰もがやりたくない事に、進めていくという事です。いつの間にか、険しい山を登るが如く、必死ない覚悟となるのです。自分が考えている理想を果たすのですから、特別な思いで、突き進むのです。世間に逆行ということが、極真会館手塚グループにも言えるのです。というのも、世間では、家庭崩壊が問題視されています。結婚した人たちの三分の一が離婚をする時代に突入しています。道場では、家庭を守り、社会に貢献する人材を探すのです。社会を良くするという人材の発掘です。この事に対して、一生懸命に骨身を削って、歩むという人材を育ているのです。これを持って、武士道的人材というふうに結論付けているのです。これもまた世の中に逆行とするような事かもしれません。しかし、しっかりと、武士道精神を定着させていかなければならないと思っているのです。この精神は、遺言を残しても成し遂げていこうとする意気込みなのです。