2016年12月14日(八段語録2993)
自己中心主義からの脱却

どの組織団体に問わず、正しいことも、いつの間にか、組織維持や正当化の為に行動します。誤ったことも、正当化するのです。実に悲しい事です。反社会的団体は、抗争を繰り返して、版図を広げようとするのです。それが、勢力拡大ということで、数の論理をひけらかすのです。そして、一旦勝ち取った権力は、決して離さないのです。まして、極真空手においてもまかり通ります。話は反れますが、厳しい道を極めていくあまり、いつしか、信念を曲げてしまって、自己正当化を始めていくのです。その信念が曲がっているという場合、極真空手には、リトマス紙があるのです。直ぐに試合で、結果が現れるということです。結局、内容がなくなるという事になるのです。理不尽な組織は、村八分ならぬ、全てを帰り見ないのです。あれだけ、貢献した人が、無視され葬り去れらるのです。それを良しとするならば、世界には貢献するという標語は、取り下げるべきであるという事でしょう。名前も変えるべきです。その組織の自己満足だけを主張していれば、良いだけという事です。
さて、私達の目指す極真会館は、礼節を重んじるのです。自分の信念を曲げる事なく、戦い抜いて、勝利のひと時を、目指すという事です。これから、新しい時代に対応すると、新しい極真会館を作る事に専念したいのです。崩れゆく組織には、すがりたくもなければ、崩壊も見守ろうとすると気持ちにもなれないのです。極真会館は、世界中に広がりました。
その為に、世界の為に働こうとする力は、湧いてくるのです。そして、世界中を訪ねて、極真の伝統を指導してくるのです。このような力の源泉は、創始者を大切にすることであります。また共に開拓した、先輩たちを大切にするということです。そのような事ができない組織もあるのです。日本人ではない、心を持った人でしょう。私が青春時代、その先輩が活躍されていた時代、多くの貢献をさせてもらいました。そして、その時代、その先輩は、私達のヒーローでした。そして、振り返る若き日の苦労の足跡は、その先輩共に繋がるのです。
亡くなっていたとしたら、心からご冥福をお祈りいたします。
ところで、今の一般社会の現状は、安楽な生活環境になっています。さらに、自己中心的要素を多くの主張し始めて来ていると思うです。イジメにおいてもとにしかりです。原発事故で、都会に移り住まざるを得なくなった福島県民の子供達に、差別をするのです。人権のなんたるかの、教育を全く受けていないという事です。自分達の地域意識が、他の地域の人を受け入れないという事です。根底は、自己中心主義という事になります。また、自殺の問題です。酷なようですが、尊い生命を自分で絶つという事はあってはいけない事です。家族の悲しみも顧みない、暴挙に似た行動であると断罪するのです。このことも、自己中心主義の何者でもないということです。イジメが原因であったにせよ、失恋であったり、行き場がなくなって死を選ぶということは、神が許さないのです。もともと、自分から生命が発生したと、思ったら大間違いということなのです。生命は与えられものなのです。それだけに、精一杯生きるのが、勤めというものです。
極真会館手塚グループの指導は、今まで受けて来た教育の全てを駆使します。人格的に成長していくことなのです。知的作業はもちろんのこと、情的にも、意欲性も鍛練するのです。
素直な心、謙虚な姿勢、そして、社会に貢献を人柄を身につけるというものです。それは、親を敬う心、人の為になる生きようとする心です。たとえ、自分が責められようとしている時でも、自分を振り返り、心を素直にして、自分に非があるならば、謝る心を備えるということです。極真空手は、まさに、心の強さを追求する武道です。心の強さは、絶え間ない、修練と鍛錬を通しなければ身につかないのです。道場生の心を高めるための、環境が稽古なのです。いかなる気持ちの状態であっても、純粋な心を失わないようにするという事が、極真空手なのです。私自身、純粋な心を失わないように、組織の決定というよりは、良心の決定に身をゆだねるのです。それが、しがらみもなく、地位や名誉にこだわることもなく、行動できる道であると思っているのです。