2016年12月12日(八段語録2989)
道場の未来

極真会館宮城県本部を立ち上げて、開拓してきた道は、極めて厳格にでした。二十数年の修行時代の全てを投入するという、決死的な気持ちで取り組んだのでした。立つ上げても、実は、不足ばかりなのです。修行したにもかかわらず、その不足を補う闘いになったのです。
最初は、一人の闘いで、誰にも頼ることが出来なかったのです。当時から、道場生三千名を目指すという目標を立てたのです。そのために、稽古以外に、あらゆることを、学ぼうとする気概に満ちていました。まさに、全責任を負うという心構えということでした。この仙台での一大事業を、成し遂げるために、誰よりも、大きな責任を、負わなければならないということを、自覚したということです。その根底の思いは、絶対に落伍者にはならないという覚悟のであったのです。
さて、仙台での拠点は、一番町四丁目、日総ビル5階でした。宮城県本部を立ち上げる以前の所属は、安斎師範の仙台支部道場でした。そこで、師範代をさせて頂きました。いつしか、極真空手に携わっていないオーナーが、人が集まってくるに従って、前面に顔を出すようになりました。そして、師範を名乗るようになったのです。心の葛藤はありましたが、結局、榴岡軽体育館に拠点を置いたのが2001年7月1日でした。手塚会長のグループに参加したのが、それから、数ヶ月経ってからでした。名実ともに、極真会館宮城県本部の創設ということになりました。ここで、会長を遣わして、天が動かざるを得ない救済の道を切り開いてくださったのです。結果、宮城県本部に多くの道場生が、怒涛のように押し寄せてきたのでした。
多くの指導者も、この時、一緒に榴岡の宮城県本部に移行して来ました。この時から、信頼できる弟子が、育ったのです。まさに、誰についてくるかということを、弟子たちが選択したことになります。この時に、特筆すべきことは、誰一人として、女性の道場生は、宮城県本部に移動して来なかったのです。あれだけ、心血を注いで、育てたという思いがあったにも関わらず、誰一人として、女性はついて来なかったという結果なのです。私が女性を引っ張る力がなかったということでもありますが、それよりも、個人的な男女の付き合いがなかったということかもしれません。それは、喜ぶことができることなのか、悲しむべきことなのか、未だに私には理解不能ということです。それよりなにより、極真の魂に共鳴しなかったということでしょう。しかし、一緒について来た弟子は、その後、道場生個人としても、大成していったのでした。
そして、あらゆる事が整理されてから、大友師範と菅野師範が、自分の分野を生かして、この宮城県本部に対して、責任を持ってくれたのでした。自分の目標を持ちながら、献身的に、道場の為に心と体を、投入してくれたのでした。不思議な事に、その後、この指導者の前に、多くの淑女が続いて来たのです。それも、独身という立場ではなく、婦人なのです。
親子で道場生になるのですから、真実に極真を求めて来たという事なのです。そのような女性は、師弟関係もしっかりと健全な関係になるのです。実にありがたい事でした。そのような現象が起こるにつれて、私の心は、解放されながら、復活し続けたという事になったのです。そして、弟子達に対して、今までは、無条件に愛情を注ぎました。しかし、盤石な基盤が故に弟子達に、帰属意識を持つように指導する事が出来るようになったのです。これからが、本当の意味での発展がなされると確信するのです。