2016年12月10日(八段語録2987)
極真空手は真実を追求する

極真空手を追求するということは、道場で汗と涙をながすことになるのです。観念的な理論だけを、振り回すにはいかないのです。「極真」ですから、真を極めるということです。それも、頭脳と共に、四肢五体を駆使するのです。時の政権とか、権力者に、へつらうという感覚はないのです。あくまでも一人の修行者としての、厳粛な道を貫くということになるのです。つまり、自分の精神と肉体を、時間と空間という流れの中で、悟りを開くということになるのです。そうすれば、ややもすれば、個人の主観が強くなるということになるのです。それでも、実感としての、真理探究ということを、標榜する訳です。そのことによって、一修行者としての、自覚が強まり、極める道を、自信をもって、追求していくということになるのです。それが、極真空手を学ぶ、意義ということになります。それも、白帯から、有段者へと道へと段階があるのです。
自分勝手な修行にはならないのです。あくまでも、ある一定のレベルが定められているのです。
その中で、高い目標を持って、真実を追求するという歩みをするのです。
さて、極真空手の伝統が定着てきているのです。フルコンタクトとしての打撃が、武道として、国境を超えて、世界に広がっているのです。真実を探究することが、民族を超えて、広がりを見せているのです。「極真」の意味合いを、経験を通じて世界中の多くの人が、経験をするという、時代を迎えたのです。実に頼もしくも思えるのです。世界中の道場生が、「極真」を極めようとするのです。そして、内容を体現するのです。また、実際に武道精神を身につけるという境地に立つのです。世界は、押忍の精神で迎えてくれるのです。礼節をもって、礼儀正しく迎えてくれるのです。そして、日本人の私達が一行を、中心に据えてくれるのです。これは、私達が尊ばれたということではないのです。真実を追求するということから、発生する私たちに対する敬意のなにものでもないのです。世界中の道場生が、真を極めるとということにおいて、「極真」必要不可欠な真理としているのです。私もそうですが、世界中の道場生が、極真の姿を体現していることに、感動を覚えるのでした。
ところで、青春時代から、いままで、もうすでに40年以上の歳月を、極真の修行に費やしてきました。若かりしことは、全日本大会に出場しました。池袋の総本部道場で、朝から晩まで稽古漬けの生活をしたものです。誰にも、見向きもされなかったのです。それでも、肉体の強さは、増してきます。勢いが止まらない若かりし頃になりました。極真空手の厳しい修行の収穫が、妻の千順さんにでもありました。純粋か心が成長して、愛情を育んだことにもなりました。また、多くの人を指導するような立場に立ったものです。肉体の強さだけでなく、精神の強さによって、正しい道へと導くことができたのです。そして、家庭を持ってからも、信頼される夫として、家族を導くことのできる頼もしく夫にもなれたのです。子供も正しく成長しました。
そして、長男は家庭をもち、孫の姿まで、見せてくれているのです。人生の終焉を迎えようとしている私が振り返るですが、これぞ、素晴らしきかな、人生と思え得るのです。この人生を導いてくれたのは、「極真」に他ならないのです。
結論として、極真空手の「極真」が留まった場所はというならば、「家族」の中にでした。
空手修行の業績は、私の人生で、良き家庭を築いてくれたということなのです。極真空手は、私の一番大切なものに留まってくれたのです。すなわち、誰にも触れられず、関与されない、「家庭」そのものになったのです。この家庭は、最高の理想になりました。生き甲斐になったのです。
もちろん、極真空手だけが到達できる道ということではなく、富士山に何箇所もの登山口があるように、私の人生において、一つの手段であったのです。これしかないという絶対ということではないのです。それでも、極真空手を日々の修練手段として磨いてきた結果、大切なものを失わずに、心の奥底に大切にすることができたということに感謝ということです。これが、私が極真空手の真実を追求した結果なのです。