2016年12月9日(八段語録2986)
極真空手で何を学んだのか

極真会館に入門したことが、人生の転機になったのです。とうのも、精神的に、どのように成長させればいいかということを、模索していたのです。その為に心がけたことは、自己管理ということでした。真面目に取り組んだものです。当時は、仏門にでも入ろうかという事を考えてみたのでした。肉体の管理をどのようにしたら、心の葛藤がないかという事を、意識したのです。
柔道を学生時代に修練してものです。肉体を作って、技を身につけることに、誇りを持っていたのです。それで、高校を卒業すると同時に、講道館に通い、柔道のなんたるかを掴もうとしたのでした。それで、満足することがなかったということでした。その時に出会ったのが、極真でした。投げ技・絞め技から、打撃の技という事に変更したという事です。講道館で柔道の稽古をしていたのですが、レベルの違いから、極真会館に転向したということになったのです。それは、私にとっての人生の転機にでもあったのでした。
さて、極真会館で何を求めたかというならば、創始者の強さ、技、人間性ということでした。求めるべき強さが極真会館にあったのです。それは、私が求めていた、自己管理に通じるものでした。空手は場所を選ぶということはないのです。どこでも稽古を重ねることができました。そして、ただ強くなるというのではなく、人間として最高レベルの人格を目指そうとする意欲を掻き立ててくれたということです。もし、肉体だけの強化だけでしたら、とっくの昔に卒業していたとおもうのです。ところが、創始者が世界を股にかけて、世界中の人達を魅了していくのです。
極真空手を身につけるということは、世界中に影響を与えること、という自覚が生じたのでした。ただ強くなるというのではなく、極真空手を通して、私個人が、世界中の人達に影響を与えていくということに、心は燃えたのでした。有段者になって、その技と人格を世界中の人達に伝えることができるという事をおもうと、奮い立つものがあったという事でした。
それ故に、空手道を学び、受け継ぎ、世界に影響を与えるということに対する魅力は、私の心を支配したのです。それ故に、稽古をして、強くなるということの意義を見出したのです。また内容持つ自分へと成長したいという欲求が高まったのでした。人格を高め、極真空手道を通じて、世界に影響を与えようとするところに、自分の道を見出したということなのです。極真空手の稽古で、総裁に結びつけ、さらに、創始者の人格を見習うことによって、極真空手の実態に近づけていこうとする闘いが始まったのです。それは、稽古をして、総裁の精神を受け継ぐことによって、刺激と感動を、最大限に受けたということなのです。 極真空手は、稽古でもって、創始者と結びつける道があったのです。私は幸いにして、創始者に直接指導を受ける立場に四年もあったのです。今思えば、この上ない幸せということでした。人格を共有することができ、さらなる発展を見出すということができたということです。
結果、極真空手のでした稽古でもって、創始者をベースとしたのです。より発展的な理想を備えた、人格者へと上り詰めていくことができる道を、見出したということでした。この道は、観念だけではなかったのです。白帯から有段者の道は、実際に稽古をしなければ登っていくことができなかったのです。名誉で黒帯を頂くということではなかったのです。しっかりとした公式路程を踏み越えて、確かなものとしての内容を成長させてみにつけたということです。今まで、何をやってきたかということが、稽古という日々の努力で達成されていったのです。それは、真実であり、観念的なことではなかったのです。ここに極真空手を稽古する意味があり、稽古をしてきたという自分の満足があり、標準的原型を身に付けてきたということです。そして、世界を相手にして、師範として、人格実体として、稽古を通じて刺激と感動を与えるという立場に立ったということなのです。