2016年12月7日(八段語録2984)
極真空手の本質

極真空手は、直接打撃制です。武士道を主張しているのです。名実ともに、実践空手ということです。オリンピックの種目における、スポーツ空手とは、異にするのです。伝統空手としての寸止めに則って、スポーツ化してきた空手とは、一線を引くのです。伝統空手の勝者と敗者の違いは分かりにくいのです。そして、ポイントをビデオ判定で繰り返すので、試合の流れは中断しっぱなしということです。選手主導ではなく、審判指導の大会ということです。剣道の場合も、同じようなポイントをメインにしていますが、試合の流れを止めてまでも、ビデオ判定をするというところには、至っていないのです。審判が主体になる試合は、ちょっと首を捻ってしまいます。それでも、色々と、検討していく中で、試合の流れを止めることなく、打撃のポイントを評価すべきです。それでも、オリンピックといえども、試合において、空手道という武道を追求することができたら、申し分ない事です。
さて、私達は、空手界の全貌を正しく把握して、無数に分かれている、流派を尊重して、理解し合うことができるようにすべきです。空手界は、閉鎖的であるがゆえに、問題が山積していることはいがめません。オリンピックに参加することができる種目になったということをきっかけに、どのように武道文化を社会に定着させていくことができるかということです。当然のことながら、極真会館宮城県本部は、「家族」のという理念を根底において、武道精神を社会に広めていくということを推進していくのです。これまで、極真会館宮城県本部を二十年に渡って、運営してきました。極真空手の伝道者として、何千名もの道場生を排出してまいりました。名誉なことです。時を重ねていくならば、世代が変わるものです。道場生の子供が親の気持ちを抱いて、稽古をしているようになっています。ありがたいことです。空手道が、オリンピックに参加しようがしまいが、社会に貢献することが前提ということです。
ところで、これからも、極真空手の代表師範として、青少年の教育に対して、最良の方向を提示していくという努力をするということです。指導者が排他的な概念で、自分の流派が、絶対であり、それ以外は認めないという姿勢は、取るべきではないということです。結局、流派ごとに、絶対者のように振舞って、絶対者が対立するようでは、どうしようもないということです。お互いに認めるという姿勢は、大切なことです。そうであっても、各流派は、それなりの絶対的な指導者がいるのです。それだけに、指導者をお互いに認めあるという事の重要なポイントは、春夏秋冬の季節の融合というふうに対応すれば良いのではないかという事です。春の力として、花を咲かせるような芽生を呼び起こすような責任者。夏の力の指導者として、いきおいよく、樹木を生い茂らせる指導者。実りを結実させることができるような指導者。そして、寒さを持って、全てを枯らして、次の時代に準備するような指導者。各々が調和していくならば、理想的な存在になるということになるということです。このような指導者が、太陽を中心として、尊重していくならば、お互いが必要になっていくということになるということです。
ゆえに、混乱を収集し、空手道を発展させようとするならば、お互いに、認め合い、協力し合うことをすべきです。それは、緩やかな、共同団体になるということが必要であると思うのです。どの団体でも、家族として、認めあるということに重点を置くということです。このようなことが、組織の基礎にならなければ、この組織は永続する事のできる組織になることがないということです。誰かが、絶対的な権限を持って、上から目線で、支持するようなことをするならば、必ず権力闘争に広がって、お互いを排斥するようになるのが目に見えているのです。継続性があると極真空手にすることによって、子々孫々まで、残していくことができればということを思うのです。そのことを極真空手の本質において、形成することができるようにと願うばかりなのです。