2016年12月6日(八段語録2983)
手塚会長が主張する稽古

手塚グループにおける極真空手は、武士道精神の付加価値を付与して、広がりを見せているのです。広がりを見せている理念は、「家族・対話・自然」なのです。その理念は、児童と老人まで、一緒になって、稽古に参加する道を開いたのです。それだけに、道場は、稽古をする道場生、そして、御両親、祖父母が見守る環境になっているのです。ほとんどの道場は、生徒だけです。しかし、私達の道場は、家族が共に集えるところになっているのです。その理念は、児童と老人まで家族として、稽古に参加する事が出来る道を開いたのです。
幅広い、年齢層の厚みのある道場へと、変化をしてきているのです。そして、当然でありますが、極真空手は、稽古を持って始まり、稽古を持って終わるの修行です。自己練磨なのです。その根底にながれるのは、礼節なのです。こには、汗と涙を流すという稽古が伴いますが、スポーツではないのです。大切にしようとする、自分の肉体と精神を維持しようとする修行があります。その修練によって、護身はもちろんのこと、家族を守り、多くの人の為になる自己を築いていくのです。それが、極真の稽古に参加する、心構えということになるのです。稽古に対して、漠然と参加するのではなく、心身の全てを投入するという意識です。
厳粛に自分を見つめる場になるということです。スポーツのように身体を動かすということに力点を置くのではないのです。あくまでも、精神が先立つということなのです。
日々、稽古を重ねますが、汗と涙は、自己管理の為であり、健全な自己の表現を支える、原動力ということになります。この稽古に何を持って参席するかというならば、心身の全てを投入するのです。曖昧な気持ちは、怪我に繋がります。つまり、魂の全てを投入することになるのです。真剣になるのです。稽古に臨むということは、あらゆる感情の全てを投入するのです。大会での勝負の悔しさ、あらゆる失敗の数々、心の奥深くにある全てを確認することになるのです。決して、スポーツという範疇だけに留まらないのです。
そしてまた、稽古は一生続くのです。そして、年齢に応じて、取り組む姿勢は全く違ってきます。年齢が高くなっても、稽古をやめようとは思わないのです。ましてや、引退して、空手着を脱ごうなどとは、思うはずはないのです。仏教でも、座禅というものがあります。空手道は、動く禅の様相を呈しているのです。
ところで、会長の主張する極真空手は、家族という理念を貫くのです。この家族にはあらゆる事例が入ってきます。その家族を大切にするのです。日々の日常に起こる事例に対して、健全な精神で対応できるようということです。それ故に、稽古で汗を流すということは、念頭に家族という意識を強く持つのです。このような極真空手での稽古は、何にも代え難いものがあるのです。金銭と比較しても、青春時代過ごしてきた、稽古人生と、金銭を取り替えることができる訳がないのです。道場生一人一人が、道場での稽古は、全く違った自分の稽古があるというものです。そして、一人一人が、極真精神に触れていくのです。ここに、家族という意識がたかまります。そして、社会という大海原で、活躍することができる舞台を作っていくということになるのです。直接打撃制を極真会館は貫いています。特に会長は、家族という理想を貫き通しているのです。
会長が主張する稽古とは、一体なんであろうかということです。家族という理念を厳粛に相続するところであるというのです。家族の中に、生活の全てが関わっているのです。その理想の姿を、極真精神で、継承して、代々家を大切にするのです。それは、あらゆる事象に対応するという能力を身につけるようになるのです。私達自体に、極真精神が留まるのです。それで、稽古が生きてくるのであり、一生継続していくことが出来るというものです。この感性を持って、稽古に参加するならば、会長が主張する稽古に参席したということなのです。このような事を再三、心に留めておかなければならないのです。このようにして、初めて、稽古で持って、清々しい感動がもたらされるというものです。そのような稽古であるだけに、新しく何か違った気持ちを感じることが出来るのです。それは、良き自分の姿の発見であり、自己創造能力の第一歩が始まるというものです。