2016年12月5日(八段語録2982)
道場の未来(5)

今思っていることは、会長が安心することができる、組織にするという事です。会長は、年齢と共に、肉体の衰えに負けまい、努力しているのです。リハビリに励む会長の姿勢を、見習わなければならないのです。いずれは、私が年齢を重ねて、四千日後には、会長に追いつくのです。会長のリハビリの闘いは、当然、私に降りかかることなのです。そのような意味では、今が必死な時ということです。このようにブログに、動画を加えたのも理由があるのです。七十歳を過ぎてからアップするようでは、遅すぎると感じるのです。文章だけでは、年齢の刻みが表現されません。しかし、このようにして、動画をアップすると全く違うのです。道場生に訴えることは、現実味を持って現れるので、大切なことであると思っているのです。別に人生の集大成ではないのですが訴える力は大きいのです。これからが道場運営の、始まりであると思っています。このひと時が重要、であると痛感すれば、必死にもなります。
さて、現実世界を眺めると、理解できないことが、人権ということで、まかり通るようになっています。ワイドショーに出演する人の中には、普通ではない、女性とも男性とも、判別がつかない人も多数ゲストに招かれているのです。いつの間にか慣れてしまって、珍しくもないのです。徐々に正常な判断が鈍ってしまいます。迎合する事は嫌いです。ソドム・ゴモラの街のように滅ぼされると思うのです。しかし、マスコミに飼いならされているのです。
まだ私には、反論する実績は持っていないのですが、本心では、嫌なものを目にしているように思うのです。偏見ということではなく、基本モデルが違っているような気がするのです。
違和感と苦痛に満たされます。そのような事を感じながら、今日の道場の運営に力を注ぐのでした。
ところで、道場の中で、選手であろうが、指導者であろうが、ハマってしまう落とし穴があるという事です。そのブラックホールです。修行の中で、一番大切な事であると思うのです。選手として日々向上して、大会で優勝するという事、指導者として、中心的立場で指導者として指導する事、そのようなことに関しては、脚光を浴びます。どんな苦労も乗り越えていくことができるというものです。しかし、選手として優勝できなくなってしまった時は試練です。あるいは、指導者として、サポートに回らなければならなくなった時なのです。
その状況を受け入れて、次に備える前向きな姿勢を保つことができるかということです。今までの、極真会館での修行の中で、誰も教えてくれなかった奥義ということです。この状況を耐え忍ぶのは、脚光を浴びている時の何十倍のパワーが必要なのです。私も何度も通過してきた道です。立場を後輩が押しのけていくのです。その時はじっと忍耐です。そして、平常心でいるという努力をするのです。その道を通過した者のみが、後輩に道を開いてあげることができるのです。
それはまさに、怨讐を殲滅しようとする、心がなければならないのです。恨みに徹して人生を無駄に過ごすようになる人が多いのです。その時の鉄則は、仲間外れにならないということです。それも無理な場合は、ただただ己に勝つという信念だけです。もし、心が閉ざしているとしたならば、心の許せる人と会話を楽しむのも良いのかも知れません。マイナスの発想を全て吐き出し、なるべくプラス思考をして、自分をコントロールすることです。十字架を負い困難な立場に立ったとしても、超えていくことができる自分にならなければ、誰からも信頼されるということはないのです。そのような道は、誰もが通る道です。心静かに対応しましょう。私の場合、仕掛けられる悪魔の放つ罠に何度も苦悩してきた経験を持っています。それだけに、刀でいうならば、真剣をしっかりと鞘に収めることができるようにと、願うばかりです。