2016年11月26日(八段語録2973)
極真空手は武道空手

伝統空手においては、技の切れ味を追求することで、技の正確さとスピードが、勝敗の分かれ道という事になっていました。それだけでは、満足する事を良しとせずに、ドラスチックに空手界に波紋を投げかけたのが、極真空手という事になったのです。技が入ったという概念ではなく、相手を倒して勝負をするというものでした。これは、空手界にドラスチックに波紋を投げかけた事になったのです。最初に、このルールで試合をする事において、マスコミがこぞって、死人が出るような危険な空手として、報道したのでした。実際の全日本空手道選手権大会での内容は、白熱した武道空手でした。次第に、直接打撃は認められたのでした。現在は、実戦空手が広がりを見せ、多くの流派が誕生するに至っているのです。また、世界中の空手家も支持するようになってきているのです。このような直接打撃制は、選手においても、日々の少年から壮年に至るまで、稽古においてなくてはならないのです。そこで、真剣勝負の姿勢を学ぶのです。
さて、このように、極真空手は世の中に受け入れられてきたのです。まさに、極真空手は世間に、波紋を投げかけた事になったのです。直接打撃制は、武道ですから、当たり前のように真剣勝負で戦うのです。これが、相当世間には浸透してきているのです。それでも、このスタイルが正しいという事を、主張すると、伝統空手を継承してきた人にとっては、受け入れがたい事になるのです。不思議な事ですが、それが現実なのです。それ故に、今でも、寸止め空手と実戦空手が、流れとして、一つになるということはないのです。このような事は、どんな組織にも当てはまるものです。正しいと主張すればするほど、その主張に関して、反対し、魔女狩り的な活動と閉鎖性をさらに増し加えていくという事になるのです。組織を作ると、それを修正するという事は、なかなか難しいものです。
ところで、そのように、極真空手の運命は、試練の真っ只中に立たされたのです。しかし、創始者の姿勢を願った生き方や、生活の基本が滲み出ているのが、極真空手であり、私達の原点になっているという事なのです。そして、これからも後世にじみ出て残すべき理想であるとして、継続しているのです。そして、主張にする事は、今の時代にだけ、果たされる理想ではないのです。時代を超えて、成し遂げられるべく理想があるのです。ここに真実があり、武道に生きるという信念に繋がるのです。極真空手が一般大衆化するという現象の中で、純然たる武士道としての道を歩もうとしているのが、手塚グループなのです。つまり、このグループに真実を見つけ、武道に生きるという価値を見出すのです。この精神は、自分に厳しく怠惰な自己との衝突であり、惰性を排除しなければならない戦い方なのです。
このようにして、私自身、極真空手が自分を鍛え、自分を整理して、新しい戦の場に、望むことができるようになったのです。その原点に立ち返って、会長と共にあると自分を省み、生活の原点を極真空手へと理想化しようと心がけるようになったのです。