2016年11月24日(八段語録2971)
極真の空手が目指す「個人を生かされる稽古」
会長は、基本稽古が大切であるという事を口癖に話します。基本の中に、心技体の全てが含まれているという事です。一連の稽古は、指導員が全体を仕切るのです。準備体操から、基本稽古の稽古、移動稽古、型、そして、組手に至るプログラムです。道場生が、個人で勝手に稽古をするのではないのです。もちろん、さらなる極みを目指そうとすることは、必要な事です。一連の稽古が終わった後で、自主トレーニングとう事で、ミットやサンドバックを使って、個人の目標に向かって、稽古を積み上げるわけです。これは、ボクシングの練習とは大分違うのです。極真空手ばかりではなく、柔道でも、私自身、実践してきたことなのです。そして、全体が一つになって稽古をする意義は、大きいのです。道場生一人一人ではなく、無限の能力を、全体が一つになって、引き出すのです。全体で稽古をするということは、これから、稽古をするのだという気合いが入りるのです。当然で、臨場感が高まります。それによって、我ならぬ我を表現するようになるのです。結果、稽古で思いっきり汗を流す事が、本人の成長をいち早く、促すようになるのです。それゆに、基本稽古の必要性を会長は説くのです。
さて、基本稽古をする時に、会長が必要性を説く家族を意識するのです。自分を育ててくれた両親を思い出すのです。家族の中で、青春時代の汗と涙が輝きを持って滲み出るのです。そして、親に感謝すると同時に、親から受け継いできた、全ての能力が、稽古と共に、発揮されていくのです。稽古の伝統とは、実にありがたいものです。自分を振り返る事ができ、現実を踏まえて、未来に目を向ける事ができるというものです。奇しくも、私は、家出同然のように、親の許可を得るのとなく、修行に旅立ったのです。それで、道場では、どうであったかというならば、両親に育たられた日々を回想するような稽古になったのです。矛盾するのです。しかし、家族を大切にするという気持ちが、基本稽古で成熟していくとは、考えてもいなかった事でしたし、実に恩恵でした。
ところで、稽古を続けるということは、実際は、大会で勝つということです。最初に大会に出場した時は、なかなか一勝をあげるのに時間がかかりました。そこで、培われたことは、己に勝つという意識でした。負けて悔しい思いをしながら、弱い自分の姿が現れたということに、克服する戦いを始めるわけです。稽古は真剣になります。そのような自分との戦いが、紆余曲折する中で、弱い自分の運命を変えるべく、新たなる挑戦をするのです。そうするうちに、新しい自分に遭遇するのです。弱いはずの自分の運命が、チェンジするのです。このような変化の連続が稽古ということになったのです。青年時代から、今は、還暦を超えてしまいましたが、自分の稽古は変わらないのです。それだけでなく、今も成長をしようとする熱意が溢れているのです。この伝統を守って、練習しているのです。これは、いろいろな派閥が表れようとも、極真の伝統として息づいているのです。そのポイントを会長は主張するのです。
極真空手が、これから、世界を巻き込んでいくという事を思えば、基本の必要性を説教していかなければならないというのが、私の役割ということになります。この会長の姿勢は、時代が変わろうと、極真の基本に忠実な稽古は続くのです。分裂は、過渡的なことだと認識しています。
オリンピックの種目になる事が継続されれば、ますます極真が光輝くのです。この極真空手の稽古は、若者を駆り立てる価値あるものを持っているのです。これからも若者に、多くの刺激を与えていくであろうという事です。極真空手は、一人一人の胸深くに、連結されていくという事に、気づかされるのです。