2016年11月23日(八段語録2970)
手塚会長と共に歩む道
手塚会長に出会って、二十年の歳月は流れて生きました。歩んだ空手道の道は、平坦ではなかったのです。会長に初めて出会ったのは、仙台の一番町の日総ビルの五階の仙台道場でした。その時、師範代として、道場の発展に尽力を尽くしていたのです。最初の印象は、学者ではないかという人相で、知的インテリジェンスを兼ね備えておられました。私自身、東北学院大学院の修士課程におりましたので、話す内容は、実に合うのです。そして、愛想よく受け答えをしてくださった記憶があります。「武の道において、千日をもって初心となし、万日の稽古をもって極とす。」とありますが、会長と共に、道を極めるのに、三分の二の距離まで登りつめてきているという事です。
私は、極真で空手に出会って、四十数年の期間が過ぎてしまいました。雑務に追われてしまうことも多いのですが、年齢が高くなるにつれて、肉体が弱り果てていくという事を痛感し、稽古に執念を燃やそうとする日々なのです。稽古ができないと、肉体の衰弱は、もちろんのこと、精神力の衰退が著しいのです。そのような事を痛感するにつけ、極真空手は、精神の成長のためにあるのです。今も、心を極める、道を極めるという極真という道を、真実に追求しているのです。
ところで、手塚会長の本当の意味での極真は、家族という範疇で括るのです。対話を重視し、自然を愛するというグループの道を解くのです。この理念を伝えてくれた故に、若かり日も、このように円熟した年齢に至っても、極真の道を継続する事ができているのです。つまり、本当の極真は、家族としての繋がりの中に、広がりを持つという理念なのです。会長の心の中には、ただモンスターを作るだけの、プロの格闘家を目指そうとするのではないという事なのです。チャンピオンが全てのような発想はないのです。映画やマスメディアに注目を浴びて、興行のような時期は確かにありました。結果、何が残ったかというならば、ローマのコロセウムのように、民衆に刺激を与えただけという事です。それは、ショーであって、道場生の一人一人の成長とは、何の関係もないのです。また家族としての繋がりが薄れるだけなのです。そのような意味で、本当の空手は、家族としての繋がりであると断言するのが、会長なのです。
手塚会長を精神的支柱として、支えていくのは、そこに、普遍な家族という単位で、人生を航行するというしっかりとした方向があるからなのです。個人は弱いものです。しかし、お互い家族として信頼するならば、手に手を取り合って、極真の道も歩めるというものです。そこに、会長が極真空手に軸をおいて、育み、、勝利的人生の立場に立たせているという事を、考えなければならないのです。このような理念を、私達だけの使命に終わるのではなのです。これから、入門してくる道場生に連結するという責任があるという事を、信念をもって稽古をしなければ、会長に面目がないということです。そのような事を考えると、難しい道もこれからよこたわっているというものです。必ずや、極真の精神で持って、世界中で、広がりを見せる武道になるという確信を持つのです。それが、会長と共に歩む理由なのです。