2016年11月18日(八段語録2965)
道場生の調和(11)
道場という環境は、世俗と一線を画しているのです。というのは、人は環境に流されやすいのです。それだけに、厳粛な道場という環境という、形を整えたいのです。そして、魂を注入するのです。道場に来るだけで、心が正されるのです。何も体調が悪いからといって、休むという選択をしなくてもいいのです。同じ道場生の稽古を見ているだけでも、刺激になるのです。どんなに忙しく、東奔西走していても、厳粛な道場で、自分の道を追い求めるのです。そこに向かって、今日も、明日も歩もうと思うものです。日々の生活では、落胆することは、多いのです。それでも、落ち込むことなく、耐えて、次なる目標に向かうのです。それが、道場で培う極真精神という事です。道場では何を学ぶかということです。空手の技が基本になってきます。武道ですから、技の中から、強さを見出すのです。それだけで終わってしまえば、ただ単に、モンスターが出来上がっていくだけなのです。そこに、魂の成長はないのです。私がブログを表現する理由は、どのように魂を磨くかという事に対しての、指導になるのです。
さて、人生に対して、いくら困難であっても、背を向けることが無いようにするのです。耐えて耐えて、たとえ屈辱を浴びせられることがあっても、歯を食いしばり、想いを抑えて、いく事が多いのです。単にイジメという表現では、済まされないことがあるのです。多かれ少なかれ、人間社会ですから、様々なことがあります。それを、誰かに求めるというのではないのです。精神を磨くということで、解決させようとするのが、極真精神という事になるのです。人生を楽に送る為に、極真空手を修行するのではないのです。私自身、今まで身悶えしながら、修行を重ねてきました。そして、道場生に、人生の生き方のモデルを示しているのです。それでも、同じような人生など、行く訳ではないのです。それでも、極真という一つの群が、社会に向かって、進軍するというのも、刺激を感じるのです。そして、一人ひとりが、社会的認知を受けるとするならば、本人のかけがえのない、財産になるはずです。
ところで、忠孝の精神といっても、どのようなものなのかということは、今の社会では、わからないのです。その立つべき姿勢や位置が不明確なのです。その忠孝という内容、姿勢、位置を探し出し、自分の価値観にしようと、心がけるのも、また武士道という事になります。漠然と忠孝ということを実践するのではなく、道場という環境の中で、どうするという事なのです。この精神のモットーなのかということを、稽古という人間関係の中で、悟るのです。当然、家に帰るなり、学校に行くなり、仕事をするなりすると、この精神の根拠が、失われるようになるのです。それでも、また、再び道場での稽古で、悟りを開くという事になるのです。このように表現できるのも、実際、極真の道を歩んで見て感じる事なのです。道場での稽古を重ねると、安易な道をいくことはできなくなるのです。何故ならば、挑戦する意味を知り、向上心が、心を覆うようになるのです。絶え間ない挑戦は始まるのです。それは、たとえ、私のような高齢になろうとも、関係がないのです。そのような精神を、継承してほしいのです。それ故に、日々道場生同士、お互い刺激しながら、次のステップへ這い上がっていこうとするということです。
今日も志を高く、日々の習慣化・マンネリ化しようとする自分をいましめるのです。いつも思うことは、道場生の手本にならなければならないということです。極真会館宮城県本部は、二十年以上の歴史をもつのです。私の直接の弟子が、今の道場の運営をしているのです。そして、その指導者が、次の弟子を育てているのです。このような組織は、無限に発展するのです。まだまだ発展途上の道場を、見守らなければならないと言う責任が、私にはあるのです。そして、心待ちにしているのは、私を越えていく人材が、どれほど多く排出できるであろうかということです。