2016年11月17日(八段語録2964)
道場生の調和(10)
世間の評価は、関係がないのです。極真の道を進むと、決めている人生を送っています。
そして、極真が、メジャーであろうが、マイナーであろうが、関係がないのです。私には、方向転換は、あり得ないのです。あっちフラフラ、こっちフラフラという訳には、いかないまで、歳を重ねたのです。もちろん、間違った道であるという結論を抱いたとしても、もう別な観点に立つという判断はしないのです。死なば、諸共ということでしょう。この発想は、忠孝の道としての道理を行くという決意のなにものでもないのです。
私のこの道の指導者としての決心は、もうすでに、1991年9月に決定していたのです。
それも、アラスカの海でなのです。キングサーモン、シルバーサーモン、ハリバットと、釣果に恵まれたのでした。コジャックの海は、白波が立って、釣り人にとっては、最高の漁場になっていたのです。一緒に釣りをした中村氏は、200ポンドもあるハリバットを、船酔いしながら、挙げていました。私の場合、一回り小さかったのです。彼には、大物釣果、そして、その時、私には、新たな人生の旅立ちを天から、与えてもらったのです。アラスカの自然は、人が踏み入っていないのです。そして、周りの山々は、厳粛な趣で、そびえたっているのです。アラスカで、人生の方向を決定するとは、夢にも思っていませんでした。その当時、会社の代表取締役でした。
半年もかけずに、辞職して荷物をまとめて、仙台に帰ってきました。夫婦と幼い子供三人を引き連れてです。ふり返れば、並大抵の決意ではなかったのです。
やはり誰も、私のような行動は、賢いと言われる人達は、決断しないようです。故郷で、一国一城の主を目指すという大胆な行動ということです。何の保障材料は見当たらないのです。大概は、経済の安定を図って、会社に入社するなり、商売するなりということを選択するのでしょう。私の場合、一国一城の主ということだけを目指して、そのような事には、何の意識もないという事でした。別に故郷に帰ってくるという事を意識しなければ、安定したであろう人生という事でしょう。それをかなぐり捨てて、開拓の道に突進したのでした。誰もできないであろうという事に、挑戦したのです。妻を驚かせたのは、四十歳を過ぎて、東北学院大学には入学して、学問をするという事でした。私としては、帝王学です。世の中の全てを分析できる能力を身につけようとしたのでした。それから、極真会館の道場運営に携わったのですから、盤石な戦略としては構えた訳です。そして、今日まで、極真会館宮城県本部は続いているのです。
乗るか反るかの崖っぷちの闘いをしないで、逃げ回って、楽しようとするならば、いくらでもできたはずです。個人して、安易な普通の道という事でしょう。私が、足場とすることができる、基盤を作るという決意でした。生命がけということなのです。誰につくとか、何派につくということは、二の次三の次でした。どのように自らを確立するかということが、闘いの原点であると思っているのです。東風が吹い吹けば、西の方に追いやられたり、北風が吹けば、南に追いやられる流浪の生き方は、嫌なのです。そのような事を、一国一城を目指すのですから、骨髄に染みるまで厳しい体験をしたのです。そして、極真会館宮城県本部を、築き上げてきたのです。
私の姿勢は、アラスカの原点なのです。その為にも、忠誠と孝行の道だけが、生涯の最上の目的となるようにしているのです。もちろん、これからも超えるべき険しい山々は、待ち構えているのは百も承知なのです。このような姿勢だけに、喜びを持って、超えていくことができるというものです。今日も焦るように過ごすのです。