2016年11月14日(八段語録2961)
道場生の調和(7)

夜中、息子が熱を出して、うなされているのです。近くの中嶋病院に車で運んだのです。ちょうど、当直の医師が病棟の巡回中ということで、いつ診察ができるかどうかはわからないという返答が返ってきました。個人が、夜間診療ができる、病院を見つけるは実に困難なのです。それ故、救急車を呼んで、救急職員に対応できる、病院を見つけてもらうことにしたのです。もちろん、救急車の中で、簡易な体調チェックをするのです。状況を、こと細かく、病院側に報告できるようにと調べていました。何件か病院の受け入れ状況を、調べて貰ったのです。そして、仙台市若林区の河原町病院に救急車で運んでもらいました。担当医師は、親分気質で、簡易ながら、すべての検査をしてくれました。白血球が通常の三倍ということと、熱が三十八度以上ということで、対策として、点滴という選択をしていました。
さらに、MRの画像を解析して、尿道結石の疑いがあるという診断でした。その病院は、ベッドが空いていないということでした。午前四時には、病院を後にしました。そして、午前八時の診察開始時間に来院するようにということでした。私と、聖義の妻の茂奈と一緒に、診察を受けたのです。顔色も良くなってきているので、今回は、自宅療養ということで、帰ってきました。
さて、生活をする中で、様々な事が起こるものです。大切な息子だけに、親としては心配になります。森家を担う大黒柱に息子は、成長してもらわなければならないのです。私も六十三歳になるわけで、バトンタッチをするには、時間はそんなにないのです。どのように成長させなければならないかという事は試行錯誤です。極真ですから、世界を超えて飛翔する息子に育てる責任があるというものです。もちろん、息子が生まれた時には、五体満足であれば、それで十分にと思っていました。それが、徐々に期待は大きくなるもんのです。せめて、私が闘ってきた世界の相続だけはしてもらいたいとおもうようになるのです。もちろん、これから私の余生をもって、やれる範囲は限られています。それでも、この願いの延長に息子があってほしいと親は思うものです。私の青春時代の果たせなかった事も含めて、願っているわけです。親のエゴということでもあるのでしょう。それでも、私自身自ら反省します。
自らを責めながらも、それでも息子に託したくなるのは、親の性なのでしょう。
そのような事件が、朝に起きました。私の体調もちょっと乱れて、休養を余儀なくされました。北山事務局長からの新規開拓の依頼も断って、ひたすら体調調整です。喉が腫れてきていましたので、休養を取れというサインにしました。ともあれ、親が歩んだ極真の道を息子があゆんでくれているのですから、感謝という事です。そして、できるだけ、生きている間、先に開拓をしていきたいものです。カッコ良く思うならば、肥やしになって、繁殖させるような作戦という事でしょう。もちろん、息子のために極真を歩むというのではないのです。多くの青年の成長のための極真でなければならないということを肝に銘じなければならないのです。なるべき、高貴な起源として、出発させようとしたのです。そして、武道の継承という中に存続させたいものです。私の気持ちが目指す方向は、例え貧しい生活をしていたとしても、高貴な心の思考を目指すということを忘れてはならないと思うに至っているのです。
そのような、アクシデントのあった日でした。悟りを開く道を行くということでは、ありがたいこととであると、心にいいきかせています。夜を不安に明かしながら、息子のいく末を案じるバカ親ということでしょう。このような気持ちを持つという事も、しょうがないと、肝に銘じるのでした。