2016年11月11日(八段語録2958)
道場生の調和(4)
研修会に参加してみて、ふと気が付くと、保護司も一六年目になっています。先輩は少ないのです。もう宮城野保護司会でも、歳は若くても上座なのです。ほとんどの保護司の皆さんは、退職してからの保護司が多いのです。それで、他の保護司は、私よりは年齢がたかいのです。結果年、保護司をやっている年数を多く過ぎているのですが、年齢は若いのです。それでも、六十三歳ですから、高齢者の仲間入りにも、近いということです。保護司としても、精一杯、日々活動できるようにということで、毎日が真剣勝負日しているのです。決して、日々の延長という気持ちではないのです。それも、保護観察期間を過ごす対象者から、学ばされことが多いということです。犯罪に陥る人の悲惨さを、目の当たりにして、保護対象者の当事者が、私の反面教師になるということです。私自身の、身を引き締めるのです。地上で生きている間、無駄に時間を過ごしてはならないと自分に言い聞かせているのです。確かに、日々困難な立場に置かれることが多いのです。極真の理想からするならば、栄光の勝利の道を行くべきなのです。しかし、現実の極真の道は、失望と嘆きが日々迫ってきます。
別に私を中心としているわけではないのですが、極真を中心とするがゆえに、あらゆる課題が押し寄せてくるということなのです。
さて、自分自身、代表師範としての役割を感じようが感じまいが、気持ちを充満させて突撃していかなければならないと覚悟しているのです。自覚的にならないと、という気持ちを強くしているのです。どのぐらい責任を消化することが出来るかは未だ、未知数です。武道という修行の道に向かって、使命を完遂することが出来るようにと願うばかりなのです。保護司としても、極真を会館手塚グループに関しても、中途半端になれないのです。私が責任を持って、生命のある限り、努力しようとするのです。
ところで、今日は、雨の中、富谷市の幼稚園・保育園の施設を訪ねて、パンフレットを置いてもらいました。こつこと開拓を積み重ねるところにしか、道場の発展はないということを感じているのす。日々努力というところです。極真空手道の発展の伝道師ということでしょう。私自身の生命を道場生の前に差し出し、武士道の精神を持つ、多くの人材を育成しようとするのです。日々愛情を注ぐことの連続ですが、それが生き甲斐ということになっているのです。誰かに、最前線を任せるわけにはいかないという気持ちが強いのです。誰も嫌がることを率先するのが責任者という意識が強いのです。誰かが伝えなければ、伝統の継承はあり得ないのです。後世に何を残すというのでしょう。生活をしてきたということだけで、満足はしないのです。ありがたいことに、子供達が生まれて、息子の子供の誕生を見たのです。魂を投入するのが、私の勤めということとして、意義づけているのです。
道場に、久しぶりに、息子が来ていました。北山事務局長と笹さんと打ち合わせをしているようでした。私も顔を出して、会話に混ざりました。今まで、親父がどのように歩んで来たかということを、弟子達に享受してもらっているように思えるのでした。ありがたいことです。息子も指導を担当してから、10年余の歳月がながれているのす。道場スタッフから、道場の運営のノウハウを直接聞くということは、刺激を受けるように思えるのです。それにしても、雨が降り続けた1日でした。