2016年11月4日(八段語録2951)
道場の調和(7)

 ことさら、正しい事だけが、通じない社会になっています。それが今の世の中であるという事を、実感するのです。正しい者が、黙ってしまって、何も言えないのです。日々生活で縛られているという現実という気持ちもあります。それでも、人は意見をのべなければならないのです。日々真実を追求し、実践する極真があっても、良いのではないかと思っています。極真空手という武道は、正しさを追求するのです。誤っている自分があるとするならば、謙虚に反省するのです。誰からも促されなくても、自分で判断して、改めるという作業をするための修行という事です。極真の理想を掲げることが、私達の本来の目的であり、栄光なのです。ひたすら稽古に邁進します。それによって、生まれる産物であり、果実が正しいという事になれば幸いという事です。私としては、空手修行が正しいだけに、酔って生きてきたという事でしょう。そして、日々自分を稽古に奮い立たさなければならないので、怠惰には成れないという事です。このような事が、私が願う、正しい希望という事になっているのです。決して、生活だけに、左右される人生にはなりたくないのです。
 そのような日々を送っているのです。体を動かしながら、心で正しい理想を、追求しようとする癖はついてしまっているのです。もっと楽をして、日々を過ごせばいいのにと安易な心は誘惑するのです。しかし、それに負けないで苦労は当たり前であると肝に言い聞かせているのです。そして、日々の稽古はしなければならないという事にしているのです。それが、正しい事に対する日常生活のノルマにしているのです。そうでなければ、生命が、正しく自分に連結されることも無く、火を噴くような、情熱ある生き様もできないという事でしょう。
夫婦としても、今でも打てば響くようになっているのです。たまには意見のすれ違いはありますが、それでも、幸せを感じるのですから、有難い事です。子育てが、そこそこ終わっているのですが、それでも親子は、一生涯の関係であり、夫婦もまた、共に寄り添うような日々を送っているという事です。その関係を維持するためにも、良心が麻痺しないように、日々鍛錬です。
 ところで、このような気持ちを抱くのは、自らの全ての足らなさと正しくない要素をさらけ出す作業をするのです。それが、正直に反省する日々が必要であるという事でしょう。
暗闇の中に心が捕らわれる事がないように、日々真剣に正しさを追求するという事です。
そうすれば、必ず約束された結果が現れると思うのです。まだまだ不完全で未熟で足らないという事を、この年齢で感じるのです。それ故、過去はもっと貧弱なものであったという事です。不備な自身を嘆きながら、今日も精いっぱい頑張ろうとするのです。自分を自慢する事のない、謙虚な者としての、生き様を展開することが出来るようにという思いなのです。
さらに、正しさゆえに、柔和な心がにじみ出るようにという気持ちにもなります。
 そのような気持ちを以って、今日も出発です。妻と共に、合宿で自動車免許を取得しようとしている娘に、米沢に会いに行きました。二時間以上も、愛車で運転です。今回は、娘が相当な決意で運転免許取得に燃えているのです。先回は、自宅近くの自動車学校に入校したのでしたが、動機が定まっていなかったので、中途半端になっていたのでした。今回は、十一月一日から入寮して、本格的に免許を取得しようとしているのです。米沢の上杉神社を親子で参拝してきました。地元の米沢牛のランチメニューが安かったので、感謝して美味しく頂いたのでした。