2016年11月3日(八段語録2950)
道場の調和(6)

 文化の日、久しぶりの休日を取りました。それでも、いつも心は落ち着かないものです。
理想が大きいだけに、その理想に向かって、前進していくという事を願うのです。しかし、前進発展するために、あらゆる解決法を模索しているのです。その解決法の一つは、指導者同士が結束して、お互い助け合うという事です。極真で鍛錬してきた肉体と精神は、一人一人違うのは当たり前という事です。その成果をお互い認めあうという事が、道場発展の一つの解決法であるのです。道場の指導者を眺める時に、お互いが大切にするという思想が、徹底徹尾実践されているかというならば、まだまだ足らないという事なのです。指導者同士が、お互いに信頼するという事が、中心の基になるべきなのです。その事を、軸に指導者は考えることが出来ずにいるという事も、見受けることが出来るのです。心を通じることが出来ない自分が、居るとするならば、謙虚になって、お互いが尊敬しあうという事をすべきという事です。責任を背負って、指導すべき責任者の基本的心構えという事になります。
 さて、数多くの指導者が、自分だけ良ければ良いという発想をしても、確かにその人は充実するのです。しかし、極真会館宮城県本部の意図とずれてしまうのです。かえって、中心者の願いのままになされるのではなく、かえって、重荷になってしまうという事にも成るのです。まして気持ちを蹂躙してしまう事にも成るのです。中心者はその人の姿勢に敏感なものです。以心伝心するものです。もし、その独り善がりの姿勢で、良いと思っている指導者がいるとするならば、中心者から見るならば、悲痛な思いにもなるのです。いつもの事ですが、指導者の評価は一進一退です。良く評価される時もあれば、どうしよもなく滅茶苦茶言われる時もあります。私の場合、絶えず評価が分かれるのです。自己評価もそうです。
ことに当たって、成功したというよりは、失敗の経験が多いのです。それを自己正当化しようとも思わないのです。
 そのように、謙虚な気持ちを抱くという事に、染みついている。私の姿勢があります。それを真似しなさいという事ではないのですが、悔しさを解くべき時、この反省が役立っているという事もあります。それで、思う事は、まだまだ私に対して、願いが残っているという事を自覚するのです。そうしなければ、成長もしないという事です。それでもって、出で立つようにしているのです。何かをしようとする指導者の生き様は、絶えずこの事の繰り返しになるのです。この役割を担おうとしても、すぐに評価などされるものでもないのです。
それで、指導の結果を、たとえ備えることが出来なくても、自問自答するのです。真摯でありながらも、震える心、もどかしい心を以って、指導に当てって欲しいという思いがするのです。
 極真会館宮城県本部を立ち上げて,私が歩んできた道のりを、勝利してきた指導者だという弟子は少ないと思います。誰の目から見ても、失敗の連続を繰り返してきたという事を異口同音に表現するでしょう。自分が約束して闘いを挑み,その約束をいまだに果たせていないという現実を見るという事です。それでも、いまだに、この極真から追放されないでいるという事は、今でも、前に向かって、汗を流しているからという事だと思うのです。