2016年11月2日(八段語録2949)
道場の調和(5)

 確かに極真空手は武道なのです。それだけに、真剣勝負という事です。勝つことを前提に闘いますから、自分本位になりがちです。それでも、極意を究めるという事は、全身全霊あらゆる能力を駆使しなければならないのです。独り善がりでは優勝など覚束ないのです。
それでも、その闘い方から、多くの選手に希望を与え、苦行に近い稽古を継続していこうとする気持ちを持たせてくれるのです。そのような勝利者の継承者に、道場生がなる事ができるようにという事です。試合で勝って、多くの希望を道場生に与える限り、選手として頑張る希望があるという事です。そして、継続していく意義を見出す限り、稽古に邁進しようとするのです。そして、その選手が道場生の手本となる限り、極真モデルとしての価値があり、誰もが尊敬に値するという事になります。そのような理想の選手モデルは、今表現している選手だからではなく、極真で勝利してきた選手モデルに表れているという事です。
もちろん、手本にもならない選手は、落伍していったという事は当然の事なのです。継続的な希望の選手、継続的な稽古をする選手、そして、評価は優勝してファイトマネーをもらうことではないのです。あくまでも、充実した人生を送るための人格を築いていくという事なのです。それだけに、優勝しようがしまいが、一通過点と割り切って、自分の未熟さと足らなさを、自分に受け入れるようにするのです。私の極真空手の原点は、試合で勝負をすることによって、時には勝つこともありますが、それ以上に敗北することが多かったのです。
そこで、今の私の不足を総点検するという事をするようになったのです。これが、試合に出場していた時と、全く同じに、日々の反省を繰り返すという作業ができるようになったのです。そして、たまには、自分を高く評価することも、あったという事です。
 ところで、極真空手を通じて何を発表できるかという事です。極真の修行をしている道場生は、多くの人に希望と勇気を与えるという評価は有難い事なのです。そして、多くの人に刺激を与え、人生の舞台で、空手をやろうがやるまいが、希望という明るい未来を多くの人に、見つめるようにしてもらう事なのです。取るに足らない私達ですが、それでも極真に結実させて、良い個人、いい家庭、良き社会というように連結することが出来るようにという事です。おくがましいのですが、中心的な役割を担う事ができる、道場生を輩出したいという気持ちが大きいのです。道場の稽古で、希望を担える人物、稽古を継続できる人物、極真の伝統を継承できる人物、更に人格を評価できる人物を育てようと必死になるのです。私自身考えているのは、極真空手を通じて、輪の中心になり、リーダーとしての中心実態になる事ができるようにという事です。そのような意味で、何も修練を積み上げることも無く、日々を過ごすようではどうしようもありません。少し厳しいかもしれませんが、極真の稽古を通じて、自分を鍛錬して、希望と勇気とそれなりの人格を、表現できるように、成長して欲しいものであると思うです。
 寒い一日です。晴れ間が広がっていましたので、前線に立つ事には、抵抗はなかったのです。今日は富谷市教室の新規の為の援軍です。指導者が先頭に立って、道場を守っていかなければ、ついてくる道場生とて、活力が出ないというものです。そのような気持ちを持ちながら、紅葉の色づく街を車で移動してきました。