2016年10月22日(八段語録2938)
勝利の道(22)

 道場生を教育するという事は、しっかりとした理念が必要なのです。そうでなければ、モンスターだけを作って、人格形成とは無縁になります。日々の単調な稽古を続けるという事は、将来を見越しているからこそ、試練に耐えることが出来るのであるのです。単に、試合に勝つという事だけでは、留まらないのです。私自身、個人としての稽古を重ねてきて、熟知した極真の内容をベースに教育に熱中したのです。多くの道場生を育てるという道を選択して、今の立場があるという事なのです。色々な状況の中で、絶えず試練がつきものです。
それを克服することが、出来るかというならば、日々の努力の結果、勝利したと言えるようにしたいものです。一人一人、願われる天命はあるはずです。それを見出し、極真と共に歩むという結論を出してもらう事に専念するのです。私としては、極真で道場生が、修行を続けるという事は、教育できた結果であると誇りたいのです。
 さて、何故、私が極真の指導者を目指そうとしたかというならば、手塚会長との出会いが大きかったのです。私が選手時代に受けてきた教育というならば、試合で勝つという事でした。特に日本人が、他の国の選手に負けてはいけないという意識を強く持たされたものです。
しかし、三十歳過ぎて、結婚してみると、家庭という新たなジャンルが出てきたのです。これに対しての回答を、その当時の極真で得ることは出来なかったのです。良き、出会いがありました。そのような時に出会った手塚会長は、道場は家族であるという一貫した姿勢でした。私も結婚して子供が生まれていましたので、行き詰った極真の道に対して、新たなる方向性を示してくれたのでした。道場生が家族という事であれば、私の関わり方は、兄として、親として、道場生を教育することが出来るという事を意識したのでした。当然息子・娘達を道場に連れて行っては、愛情を注ぎました。そして、同じ年齢の子供達にも同じような気持ちを持ったものです。入門してくれた大人の道場生に対しても、厳しくも、愛情の限りを尽くす事ができたのです。これが極真の指導者を目指すことが出来た理由という事です。
 ところで、今の正直な気持ちは、道場生全体が一丸となって、教育の結果を表して、最高の人材を抱える道場にしたいという事です。その為に、私が教育の主役を担うという責任を買って出たのでした。人を育てるという責任が、大きければ大きい程、あらゆることに対して、克服するという道を行かなければならないという事になったのです。実に遣り甲斐が生まれたのです。道場生を教育するという事で、克服しなければならないことが大きかったのです。そして、ますます任された責任が大きければ大きい程、現在の立場で強固な基盤を築きあげようと思ったものです。周囲からどのような試練が押し寄せても、消化し、吸収し、除去する事の出来る主体的なパワーの源になろうとしたのです。そして、一通り、道場生が成人になって、現場の指導をしてくれているのです。苦難の峠を越えて耐えてみると、結実が指導者として現れているではありませんか。それが何よりも嬉しく感じるのでした。
 このように、会長と出会って、新しい開拓ができたのも、家族という徹底した道場生に対する思いやりからという事です。これがこのグループの根幹であり、目的でもあるのです。
このような姿勢を先頭切って、歩むことが出来るのも、会長共に極真の道を歩めたからという事です。流れゆく歳月で、これほどまでに明確に、自分の位置を保てるのも、家族としての理念からという事なのです。