2016年10月19日(八段語録2935)
勝利の道(19)

 今日も、極真会館の未来の建設する指導者として、開拓精神を持って、気合を入れて歩むという事です。年齢を重ねた胸に、何を吹き込んで、いかなければならないのかを考えてしまいます。指導者としての自負だけではいけないのです。業績が問題という事です。極真の道を嫌がる訳にはいかず、現状に留まる訳にもいかないのです。それだけに指導者として、どのような威信を、立てることが出来るかという事を、はっきりさせなければならないという事です。人生は流れゆく歳月と共に、瞬く間に過ぎていくのです。子供の頃が、昨日のように思えるのも、その事ゆえという事です。また青春時代は、流れ者の境涯が、三年以上も続けたのです。寝袋で生活した日々が忘れられない気持ちになります。そのような下済みの生活をしながら、理想を求めていたことを忘却しないようにと思うのです。
 今日の朝日も格別で、太陽が東方から昇るのを眺めるのです。自分の心は歓喜して、その光に満ち溢れているようなのです。夜中は、闇夜の物悲しい影と共に、太陽の光も痕跡も現れず、物静かに時は流れていたのでした。それが、日の出とともに輝き、全身を照らしてくれるのです。何とも言えない気持ちになります。それと同様に、今まで青春時代の全ての尊いものを誇ってきたのです。それでも、開拓者であり建設者の私としては、人生の終わりを迎える前に、やる事があるようです。今のこの時も、何かを地上に残してから去って行こうと身もだえする日々という事です。何も無かった闇夜からの出発という事かもしれません。
そして、今は、業績が出始めているのですから、太陽が昇ると同じように、大切にする日々でありたいという事です。
 ところで、極真の道に邁進し、理念と実践を通して稽古する道場生に積極的に話をするのです。おくがましいのですが、何に向かっていくべきなのか、その向かっていくところに、どのような責任を負うべきなのかという事の進言なのです。今の道場生は、確かに私が青春時代を歩んでいた時とは違うのです。つまり今の指導者達の姿と似ても似つかないようでした。どちらかと言えば、私と違って、気持ちの優しい指導者ではないかと推測もするのです。それでも、逞しく育てるのは、私の責任であるという気持ちを持たなければならないという事です。今の私がどんなに幼くても、道場の指導者の胸と胸に、実力を備えなければならないと焦る思いにもなります。それだけ、教育に関しては真剣であるのです。指導者が帰属意識を持ち、新たなる道義に燃え、義侠心と意欲に燃えることが出来る、勇猛なる心を備えていくようにと、指導するのみなのです。極真会館の起源を築いてきた、私からの盤石な基盤を作って行く為に、とてつもない使命が、今の指導者にあるという事です。私自身が叶わなかった夢を、次世代の、指導者が叶えてくれるという確信を抱くのです。
 もう私が、机の上で、無意味な時間を過ごす訳にはいかないのです。私が無感覚な木石のようでは、指導者は育たないのです。今日、若き指導者が欲している事の声を聞き、そのサポートになる事ができるようにという思いにもなるのです。今の極真の姿と未来像が、私の意欲を呼んでいるようにも思うのです。進むその歩み歩みごとに、気を引き締めて、行きたいものです。気合を入れる一日という事でした。