2016年10月9日(八段語録2926)
勝利の道(10)
月一度の指導者研修会、そして、その後継の選手会という組織を維持しているのです。いったいなんの為にという事です。それは、極真の道を最後まで歩み続けて、残る事ができる道場生を育てるためです。ここで訓練されて、人生の羅針盤を学ぶようにするのです。本来ならば、膝を交えて長い時間、一人一人と話したいのです。忙しすぎて、一人一人と、会話する時間も持てずにいるのです。その為にも、指導者研修会や選手会という組織は、私が話したい極真の伝統と一つになるいい機会という事です。道場生の一人一人が、入賞して、栄光の一時を持つこともあります。そして、その時、極真での望まれる姿勢を求めて欲しいのです。栄光だけを受けて、お世話になった人に、栄光を帰し奉れない人は、結局栄光を、自分だけに帰して、それでおしまいです。誰も最後はその人を、振り向いてもくれないし、結局自己満足だけに終わってしまうという事です。そのような人は、栄光を受けて、とてつもない方向に行って破壊してしまいます。しかし、反対に、自ららを低い立場に処して、成長しようとする勢いを、備えていくという人は栄えるのです。
さて、指導者は、指導者研修会をしている意味を考察して欲しいのです。また選手会の道場生も、どのような事なのかという事を考えて欲しいのです。渾身のエネルギーでもって、菅野師範が皆さんを、助けているという事です。これから極真を背負う指導者や選手が、間違いなく栄光を勝ち取る事が、出来るようにという配慮からなのです。本来ならば、自分が悟った秘伝を、伝えるという事などはしないのです。隠し持ちたいのです。それでも惜しげもなく、指導をしてくれるのですから、感謝の念を道場生は、持つべきという事です。そうした場合、菅野師範の意図をしっかりつかんで、自分たちの心に刻んでいかなければならないという事です。そうでなければ、胸を張って、極真の指導者であるという事を、表現することも奥がましいという事です。
ところで、菅野師範の心に残るような指導者、選手会にならなければならない意味を感じて欲しいのです。一緒に歩むという事ができる指導者、選手会になる事によって、最初から、指導者としての栄光を心に描き、また自分を見つめ直すという事も、必要であるというのです。極真の道場で誓った決意を、最後まで維持していくべきです。それは、指導者研修会や選手会で、しっかり対応して貰っているはずなのです。指導を受けた結果、その願いに従順になる弟子にならなければならならないという事です。そして、研修を受けたならば、自ら反問して、成長すべきなのです。人生は必ず終わりの時が来るのです。私の方が終わりの日に近いかもしれません。それでも責任を負う、後に続く、道場生にならなければ、指導した菅野師範は、力をなくして、嘆きのため息しか、出てこない事になりかねないのです。
とにかく、指導者の皆さん。選手会の皆さん。栄光を見つめ、心で極真の誇りを自認して、許されて、歩んでいるという自覚も必要であるのです。当たり前に、指導を受けているという事ではないのです。必ず、自分の分野があるはずです。そこに責任をもって、対応するならば、自ずからスペシャリストになるはずです。途中で挫折していった人たちを、何十人、何百人と見てきました。結果、大成したという日とは一人もいないのです。そのような敗者になるのではなく、堂々と極真の正道を歩んで貰いたいという気持ちなのです。