2016年9月27日(八段語録2914)
愛情(27)

 極真会館宮城県本部が、活力を持って、精力的に、推進出来ている理由は、指導者達の道場に対する「極真愛」ゆえにです。私一人の力では、これからの発展はあり得ないのです。
指導者一人一人の、パワーが、道場の力の源泉になっているのです。また、この社会に確固たる地位を確立して、残されているという事の理由を考えましょう。道場生による、極真会館宮城県本部に対する「極真愛」である事は、誰の目からも理解する事ができるのです。そのような「極真愛」の原則によって、道場の指導者が、日々の稽古の環境を受け止めて、正しく指導しているという事になります。指導者として、指導をして、満足する道場にするには、指導者も修行の道を、継続しなければならないという事実に、直面するのです。そこには、苦痛もあり、悔しさも悲惨さもあります。何故ならば、この極真会館宮城県本部の、人間関係を逃れることが出来ないのです。
菅野師範を中心に、現実に運営されます。その中心は不変なのです。そして、指導員が指導を受けるのです。指導員の中でも先輩・後輩はあります。その位置を守るという修行は、並大抵の事ではないのです。先輩指導員を批判したくなる心は、誰にでも起きてきます。それを愛情で包んで愛情が現れ、「極真愛」がなされるように成らなければならないという事です。 そのような事が、伝統となり、刺激的な追憶の対象に、しなければならないという事です。批判よりは、むしろ感謝する事ができる内容で、消化する日々を過ごすという修行なのです。先輩・後輩の関係でぶつかる事があっても、消化できる修行を、残すことが出来るかという事です。その事が少しは消化できたという事で、極真会館宮城県本部の残る事ができるという事です。空手の技の修行は、目に見える修行で、道場に通った時間と回数で、解決に向かう事ができます。しかし、目に見えない愛情で消化して尊敬するという心は、修行の極致ですから、難しい課題のなのです。ここに立っている私自身も、愛情で包むという事が、最大の自己否定につながるという事で、もだえ苦しむのです。この道を歩んでいく時、実践するにおいて、一途に、極真の道を推し進めてきたがゆえに、愛情という事は、必然的に満たしていかなければならないという事です。
 今日のように、実質的な基盤を整えてきたのですから、誰も敗者の悲しみに、追いやりたくはないのです。自分の吐いた言葉で、先輩を傷つけるような事があっては、天地に対して、済まないと思うべきです。結局、胸突き三寸の峠を越えることが出来ず、落ちていく指導者になるという事です。かつて、落ちていった指導者がいました。もう極真会館宮城県本部とは、関係を持つ事すらできないのです。それだけに、道を誤るという事が、自分の人生の選択で、いかに悲惨になるかという事を、心に留めるべきです。愛情を磨くために指導者になっているのであって、先輩を裁くためではないのです。
「極真愛」の目的ゆえに指導するのであます。
愛をプラスさせる為に、指導して、見せて、感じて自ら動くという、本性的姿勢を整えようとするのです。指導者は、傲慢な自分を警戒しなければならないという事です。
また固執もしかりです。自分の立場を主張する事は、妨げになります。それだけに、まず指導者として自分の位置を離れないという事です。次に、下剋上の気持ちを持たないという事、更に、押忍の精神を忘れないという事、最後に悪口を繁殖しないという事です。