2016年9月26日(八段語録2913)
愛情(26)

 六十三歳、誕生日を迎えました。この年齢でも修行が足らないようです。頭脳明晰という才能には、恵まれませんでした。それでも、忍耐強く体験を、積み重ねる姿勢の人生の道になりました。その生き方に対応するかのように、見えざる手によって、実践空手である極真の道を選択したのでした。結果、正解です。頭で考えるよりは、経験の中での実践でした。
自らを成長させるという姿勢は、自分で戒律を決めて対応するならば、間違った方向にはいかないという事なのです。一市民として、さらに、代表師範として、地域の中で寄り添えるのです。こうして、生きることが出来るという事は幸せな事です。
もちろん、全ての人の、経験は出来ません。あくまでも自分人生という流れる川の、行くことが出来た道は、想像していたものとは全く違っていました。極真の修行ですから、苦難を受け入れて歩み続けた事であり、試合でしたから、若き日は悔しい日々を過ごしたものです。
自分の部屋で悶々とすることも多かったのです。そんな気持ちに束縛されないためにも、極真という大義名分のもと、より高いレベルを目指したのです。嘆いて、自らを卑しんでいる事実を発見しては、自分に同情しながら、新たなる道の開拓に出かけるのでした。
 さて、今まで生きてきて、何を望んできたかという事を考えます。個人として確かに存在していますが、個人を越えて、何かを探そうとする人生であったことは間違いないのです。当たり前の事に気が付くまで、時間はかからなかったのです。修行の全ては、良き女性との出会いを求めた事になりました。良き伴侶を迎えてからは、理想の家庭を慕ったという事です。何かにつけ、いつも慕わなければならないレベルを、自分に言い聞かせて、邁進するという連続の日々なのです。向上心がまさっていたのです。家庭では、妻は正直です。私が情熱を持って、何かに夢中な時は、応援しているのです。反対に、ふさぎこんでいる時は、魅力もありませんので、見向きもしません。私の一生懸命な姿と、心だけに反応するのです。
それが、良き刺激となり、誰も真似をすることが出来ない、自分となっているように思えるのです。
 ところで、このような年齢になる多くの友人は、会社を退職したりしているのです。生命のない木石のようになって、ぼんやりしているのです。もう人生の役割を終えたように感じてしまうのです。私は、そのようにはならないと思うのです。誕生日を迎えての決意は、私に感情があり、感覚がある限り、これからも、自分が驚くべき体験をもっと探して、直視していきたいという事です。まだまだ、困難に直面する事も多いと思うのです。それでも「私」だけ一人ではなく、家族と共に、極真と共に闘いをしているという事を、自覚するという事です。これからも、憤懣やるかたない悔しい立場に、陥る事もあると思うのです。それでも、その場を逃げることなく、体験と経験を強調して、毎日毎日感情をむき出しにして、体験生活を重視していきたいと心に決めた誕生日なのです。 人生は、体験と経験から逃れてしまったら、抜け殻になってしまいます。誕生日を過ごしてみて、経験を恐れない生活が必要であると思うのでした。
家族全員で、我が家で誕生日を祝ってくれました。平凡である事かもしれませんが、新鮮に感じます。その僅かな祝いの席が、私の栄養素なのです。エネルギーを出し切る事ができる日々を過ごせそうです。
現状に満足することなく、あらゆることにチャレンジして、前進です。