2016年9月24日(八段語録2911)
愛情(24)

 忙しい土曜日です。農作業にも出かけられないのです。最初の行事は、利府の本家の家督の六十五歳での死去による、一周年の法要でした。私よりも年上でしたが、それにしても、旅立つのが早いという気持ちです。彼は、公務員を退職して、年金も貰う年齢に達することも無く、家族を残して逝くという事でした。惜しむ気持ちも深まります。
また、家族にとっても苦痛なる立場に立つという事です。それ故に、法要会場は、もの悲しい雰囲気が漂っていました。
私は小学低学年までは、利府の親父の実家に両親に付き添われていきました。近くにお寺の道安寺と観音様を祭った場所があるのです。実家の家督にあたる叔父さんが、北海道から開拓を断念して帰ってきたのです。いつしか、親父と口論の喧嘩になったのです。その時以来、父は実家を家族で、尋ねることが無くなってしまったのです。それまでは、私は、道安寺で遊んでいました。当時の住職が「ギドウ」和尚で、「義道」なのです。とても達筆で、墓石や寺の文字は全て住職が書いていました。小さいながら、私との縁を感じていました。直接習字の指導は受けませんでしたが、尊敬できる和尚さんでした。
 それから、幸町の教室の新規対象者の道場説明に出かけました。
ここは、学生の指導員の平山甲太です。もう十数年の空手歴です。代表師範を迎えようとする気持ちも、育ってきていました。技術面と精神面、それを伝えるのが、正しい言葉の表現を磨くという事を言い残して、教室を後にしました。それから、トレーニングです。午後七時からは、交通指導隊の会合に出席しました。その後師範室で整理をして、帰宅したのが十時を回っていました。まだまだ、極真空手は日の当たる所にあるとは、思っていないのです。
野球、水泳、サッカーに飲み込まれています。それ故に焦燥しているという事もあります。
少なからず、極真空手道が、世間に認知されるように、責任を持とうとしているのです。行くべき道は本当に、厳しいと思っています。それでも、人材育成には自信があるのです。それ故に絶望や、落胆する事がないように、日々精進という事です。
 というのも、このように地味な武道ですが、現代社会に必要な精神であると確信しているのです。そのような確信をするがゆえに、苦労はいとわないという事です。私が行くべき道、私の家族が行くべき道、犠牲になろうがなるまいが、邁進して勝負していきたいという事です。まだ、私の動脈・静脈は二十四時間絶え間なく血液が動いているのです。寝ても覚めても、どのように極真空手を広めていくかという事だけに熱心なのです。疲れた身体を支えることが出来ないようになって、床に横になる時でも、極真空手の未来を見つめているのです。
できれば、こうべを上げて眺めることが出来る時間内で、人生は終わりたいという思いです。今の子供達を育てるのは、この極真空手であるという信念だけは変わらないのです。そのように極真空手の伝道者となって、多く子供達に、希望の人生を歩んで貰いたいという欲求で一杯になります。そのような決意を私がするならば、極真空手は滅びないという確信さえ抱くのです。国家と世界の為に、最高の人材を育てていきたいという気持ちになります。
そのようにするためにも、日々負けることは出来ないのです。そして、日々不死鳥のように復活するように心がけるという事です。強く大胆な心を持って、極真の道を直行できるように決意するのみなのです。私の決意が、極真の道を開くという気持ちを抱いて、就寝でした。