2016年9月20日(八段語録2907)
愛情(20)

 本部道場に、二人の若き指導員が来場していました。一人は、息子であり、もう一人は、社会人として三年程になる茶帯の八戸指導員です。息子は、二十五年程の空手歴になります。
八戸指導員は、十数年の空手稽古を継続してきました。私が、極真の代表師範として、正しく若き青年を導いているかというならば、不足が目立つのです。言い逃れが出来ないと思っています。それでも、三十・四十歳、離れている若き指導者に、できる限り極真空手を抱いて、人生を過ごしてもらいたいと思うのです。
 若かりし頃の私が、極真の道に触れて、興味本位で、困難ではないと思って歩んできました。しかし、厳しい難行苦行の道であることを実感しました。また、映画でも、雑誌でもかっこの良さが宣伝されていましたので、楽しい道であると思ったものです。それも、稽古をし続けると、何度も断念して、止めたくなる道であることも知りました。その道を後輩の指導者に「行け」というのですから無慈悲な先輩であると思ってしまいます。ましてや、息子に指導員の道を、強要したのではないかと、反省もするのです。極真の道は、理由をつけて、落胆しやすいのも事実です。多くの道場生が入門してきました。残念ながら、道場生を信じて指導してきましたが、途中で断念していく道場生が多い事に、指導者として傷つくことも知りました。
 さて、私はというならば、変わる事のないのは、極真の道であると突き進んできたのです。それででも、先に表現しているように、何度挫折したかという事です。結果的に、極真を掴んで離さなかったので、振り返れば幸福な時として思い出に残るのです。多くの友人の人生行路とは全く異なったものになりました。日々修行という極真を掴んでは、悩み葛藤の日々という事でした。それでも、人の道として、極真の道で掴むことの多い、幸福実感で一杯に思えるような、理想を抱いて突き進んできたのです。先輩として開拓した極真の道だけに、少なからずの誇りを持って、二人の若き指導員に語りかける私がいるのです。それも、最高のプレゼントをするような気持ちになっているんです。自分の困難、仕打ち、悲しみの体験を踏まえても、この極真を目指させようとするのです。どのように若き指導者は捉えてくれたのでしょうか。
 ところで、振り返るまでもなく、極真の道は楽ではないのです。有段者になれるのは、ほんの一握りの道場生なのです。級が進めば進むほど、自己葛藤が大きくなります。重圧も半端ではないのです。そして、自己弁明する事は出来ないのです。何故ならば、簡単には押忍の精神であり、先に行って、そんな道でも整えてくれた創始者がいるという事でした。
また、それを継承して、理想の極真を描いている会長がいるのです。私よりも先に苦労し、道を切り開き、先に経験している先人を前にして、後退する事は出来ないという事です。
私がぶつかる前に、ぶつかって勝ち取ってきた会長です。そんなことを考えただけでも、しっかり地に足を降ろして、若き指導者にも、困難にぶつかる道でも「行け」と言ってしまうのです。会長が倒れる前に、私が倒れる訳にはいかないのです。また私が倒れる前に、若き指導者を倒れさせてはならないと思っているのです。私の一身を極真と結び付け、高く評価しながら、頭を下げながら、栄光の道を行く覚悟ということです。