2016年9月19日(八段語録2906)
愛情(19)

 敬老の日、息子夫婦の士紀雅が居間を訪れて、笑顔を振りまいてくれました。「お爺ちゃんだよ」との嫁の茂奈の紹介で一瞬、誰の事と思ったのでした。見渡せば、私しかいないという事です。もう、そのような年齢に至っているという事です。孫がお爺ちゃんとしての私と、心を通わすようになっているという事です。隣を見れば、お婆ちゃんが座っているということです。孫の士紀雅が、私達夫婦と愛情の縁を結ぶという事です。嬉しい限りです。
何かしら、本来的な良心が、芽生えるような感動が、孫の士紀雅から伝わってきます。
この孫の為にも、健康体として愛情と良心が和合する事ができる、心と体の調和を、保つことが出来るようにと、願うばかりです。
 私自身、両家の祖父母から愛情を注がれた、感覚があるのです。思い出は、祖父母と一緒に田植え・稲刈り・牛と豚の世話・魚釣り等様々です。祖父母との心が通った思い出が、宝の山のように、心に溜まっているのです。祖父母が私に教えてくれたことは、森羅万象を愛する心を、啓発する事でした。何も分からない、孫の立場の私に、田舎の日常の全てを、教えてくれました。興味を持った事については、付き添ってくれたのです。田植えの仕方であったり、稲刈りであったり、山に薪を切に行ったり、炭焼きをしたり、様々です。
 それを今度は、私達夫婦が、孫の士紀雅に教えていくという、立場という事です。愛情の経験は大切です。孫に最低、嫌われないようにしなければと、思うのです。孫の士紀雅を見れば、誇らしく思うのです。日本とアメリカの国の架け橋のハーフなのです。実に愛嬌たっぷりです。もう少し大きくなったら、お爺ちゃんとして愛情の羽を広げて、自然を抱くことが出来る、広い力量を持つ孫に、育てたいと勝手に思っているのです。その為に何をすべきかという事も、頭をよぎるのです。日常の会話を、母親の茂奈は英語を交えて話します。
私はというならば、抱っこして、顔を覗くのが精いっぱいだけなのです。それでも、一つ一つ体験を通じて、言葉を教えてあげなければならないと思うのです。次には、一緒に体験を通じて、物事に対する対処の仕方でしょう。更には、愛情を示すことも大切であると感じています。
 このようなお爺さんとしての、称号を頂いたのですから、一生懸命、愛情を呼び起こすように語りかけたい思いになります。今までにないお爺さんとしての経験に戸惑いながら、孫にこうべを垂れる心を備えていきたいという事です。そして、孫の言葉に耳を傾ける心を備えて、懐に抱くようにという気持ちになります。このような不思議な人生の御業に感謝です。
自分から、望んで得られるものでもないと思うからです。それだけに、既に私は、祖父母に愛情を注がれましたから、孫に注ぐことのできる、恵まれた立場なのです。
 このような気持ちを持った敬老の日でした。外は雨模様でしたが、心は一つ各位が上昇したようにも思えます。お爺ちゃんという立場に連結されたのです。今後、実体的に、実証的に、経験を通じて、名実ともに、お爺さん役を、こなしていかなければならないという、自覚をさせられました。私の感性、すなわち、愛情と心情が、新たなる段階に至ったという事でしょう。
良くも悪くも、人生は過ごしてみなければ分からないという事です。そのような幸せが、日常の営みに生まれたのです。