2016年9月17日(八段語録2904)
愛情(17)

 家族に包まれて、過ごせる家に感謝です。平凡な平和な日常ですが、永久に続くかというならば、続かないのです。私の寿命もあります。家族に、何か降りかかって来るかもしれないのです。それでも、新鮮な一日として、スタートです。朝から、根白石の畑に出かけました。白菜と大根がメインです。さらにカブと小松菜を植えて、冬に備えようという事です。
自給自足なのです。見渡すと、白菜が育って、葉を大きく広げてきています。
先日、妻の千順さんが、白菜を間引きして、新たに耕した。畝に移植したのです。移植という作業は、根付くのに時間がかかるのです。今日は、堆肥を加えて、成長を手助けするのです。さらに、タマネギ、インゲンの畝を十本ほど耕すのです。朝八時から始めて、小雨が降る中、夕方の五時過ぎまで、農作業を続けてきました。確かお盆に草刈りをして、きれいに農地をしていたのです。一か月も経つと、草が、ぼうぼうという状況になります。雑草刈りは、実に手間がかかります。草刈機で、根こそぎ、排除して、耕運機で土を耕すのです。
それから畝を立てるという作業です。その中に、堆肥を投入して、いつでも作物を植える準備です。
この作業が、心の源泉に接するようで、蘇る気持ちになります。里山の自然に触れながら、軽やかな気持ちになります。自然と共に生きるという、当たり前の事が、身近に感じます。
そして、自然が慕わしくなるのです。畑の耕作は、自然と、時間をかけて共にするのです。
山や川、田圃や畑と共に。過ごしているのです。何気ない気持ちで、感謝と喜びの賛美を、繰り返しているのです。不思議な事に、畑を耕す道具を持っているだけで、一日中自然と調和ができるのです。そして、共にダンスを踊っているかのような、錯覚さえ覚えてしまいます。そんなことを意識すると、自然に似せて、人間が存在しているようにも思えます。 
ところで、農夫になっていると、世間の事情とは、関係が無くなります。世間で立ち込めている、低俗な批判のワイドショーとは無関係です。そのレベルの事は、農夫の私には、もう漂ってはいないのです。人としての、面目を保てているとも、感じてしまいます。自然と過ごすと、大地の信任を受けているように思うのです。そのような広い大地の中に、たたずむ自分を知るのです。自然を楽しむ一つの方法としての、農作業は、自分の心を慰労してくれるのです。また、自然が守ってくれているという、気持ちにもなります。
様々な、しがらみも忘れてしまいます。何もかも忘れて、没頭していると、もう夕方になっているのです。清々しい一日でした。恨むべき自分を越えまいとしても、越えてしまう大地の豊かさを感じてしまいます。落胆しただろう気持ちは、もうすでにないのです。
 悪意の気持ちの終わりの、到来のように思う程、農作業は有難いものです。ひょっとして、大地を掴むという事は、私の心に力を、生じさせてくれるという事と思ってしまいます。それこそ、気持ちとしての愛情の、源泉に接するようです。心の動機を、自然に向けるだけで、多くの恩恵を受けてしまうのです。知らず知らずに、自分の不足な事を、大地に、暴露すまいとしても暴露してしまっているのです。自然は、大地の力をもって、栄光の中に顕現できる、私に育てようとしているように思うのです。農作業を終えて帰る時には、私が異なった姿になっているという、錯覚をしてしまいます。大地は有難いと思える一日でした。