2016年9月14日(八段語録2901)
愛情(15)

 道場での修行は、指導を受ける事、指導をする事、技術を学ぶ事、指導員が尊敬しあう事、道場生同士が仲間意識を持つ事、そのような事です。特に大切な事は、誰とでも気持ちを通じることが出来る、心情面での啓発なのです。多くの人の最大の大きな悲しみは、お互いに信頼と愛情の関係を、結ぶ事が希薄であるという事です。いざこざが絶えない組織は、滅びます。またお互いに裁き合う組織も滅びます。仲間同士信頼し合うに相応しい人格の形成をすべきなのです。信頼し合う事ができなければ、良心を失ってしまう事にも成るのです。
つまり、信頼と良心が和合する事ができるようにするのです。その為の修行という事です。それは心と体の、和合する立場から出発するというのが、武道の教えなのです。そのような感覚を大切にして、初めて信頼と愛情が通じていく事ができるというものです。何か、事件や事故が起こった時だけ、人を思うようでは、心が育たないのです。その人の大切さを、日常の中で表現するときに、信頼と愛情が育つというものです。
 さて、何故厳しい稽古をするのでしょうか。多くの人を愛する事ができる、心を育てるという事なのです。その為に、肉体の極限まで追いやって、自己を管理するのです。その事から生まれるのが、確立した愛情であるというのです。その愛情を回復させようとする一つの道が極真なのです。それは、誇らしい姿として、愛情の羽を広げて、多くの人との、信頼と愛情を抱くことが出来るようになるというのです。広い裁量の気持ちを持って、人生を歩めるというものです。このような信頼と愛情を通じさせるために、稽古は必要であり、その為に指導者は、道場生に的確に声を掛けてあげることが、出来るようにすべきなのです。それは、指導を受ける者にとって、貴重な宝になるのです。それ故に、指導者は自分自身をしっかりと、稽古の真っただ中において、自己管理をすべきなのです。他の指導者の事をとやかく言うのではなく、自分を治めるという事に、集中すべきなのです。一生懸命に指導しているとするならば、無言で影響を与えることもできるのです。
 ところで、極真の道は、自分が指導しているのではないのです。あくまでも極真の精神を道場生に伝えるという事です。そのような意味では、自我が出過ぎるのも困りものです。伝道者であるという自覚を持つべきです。極真精神を伝えるのです。そして、まだ気づいていない心を模索しながら、実体を目指すという事です。そのような指導者にこそ、こうべを垂れることが出来るというものです。その指導者の言葉に、耳を傾けることが出来る気持ちを道場生に、備えさせるべきなのです。それが、道場生を栄光の懐に抱く恩恵を与えるという事に繋がるのです。道場での稽古は性善説に基づいています。この精神を身に着けるために、日々稽古なのです。そのような意味では、悪意とか憎しみ、裁きのような気持ちには通じない道なのです。指導者に言うのですが、指導している心を指導者の心ではなく、自我を忘れて、清き魂として現れるように願うだけなのです。
 今日もあっという間に過ぎてしまいました。一つ一つ夢の実現の為に、日々精進です。しっかり、社会に対して、プライドを持った姿勢を貫くという事が必要であります。極真に席を置いているプライド、それを前面に出して前進しましょう。