2016年9月13日(八段語録2900)
愛情(14)

 天候は曇り空が続きます。時折小雨が降ってくる、一日となりました。今日は、東仙台で新規を歩んできました。電話が鳴らない事に、新規対応に、取りかかりようがないという現状なのです。それでも、意気揚々と戦場の、前線に立つという気持ちなのです。私の車を運転して貰って、現場に到着するのです。プリウスのPHVハイブリットの四年過ぎた車ですが、新車のようにきれいなのです。一方、北山事務局長は、今でも、マツダの軽自動車に乗っているのです。心苦しい思いもあります。何とかしてあげたいというのが、親心という事です。それでも文句の一言も、言わないのですから立派なものです。修行の道においては、師が歩んできた道を探すのです。どのように、あえいだかという事を実感しなければならないのです。しかし、その中心の師を見つめて、指導者や稽古をしているかというならば、ちょっと薄いように思うのです。この道場の雰囲気は、私が修行してきた道の完結なのです。そして、その雰囲気が全道場に、行渡っているという事なのです。それを余りにも意識していない指導者や、道場生が多いという事です。
 さて、指導されている弟子が、師を大切に慕わないとするならば、悲しい事です。恐れ多くもその事を察している、弟子がどのぐらいいるかと瞑想してしまいます。第一に中心である師を慕うという事を意識すべきであるという事です。そうしなければ、この道場に責任を持つ、主人の立場に指導者は、立つことが出来ないという事です。この道場に責任を持つ立場に立つには、師の世界を求めていくべきであるという事です。決して、人間の師ではなく、この道を歩んできた、修行の師という意味なのです。私自身現役のように、道場に対しては対応しているのです。指導者が師をしっかり受け止めて、直接道場生に対して指導する立場であるという事です。それは、道場だけではなく、日々の生活全部なのです。自らの内面の生活態度と事情を、自分で管理して、師を見つめ直さなければならないという事です。
 そうする事によって、弟子を身近に置き、道場の伝統を継承した指導者として、結実として、賞賛すべき存在になる事ができるという事です。そのような日々を弟子が、行くとするならば、質の低い組織にはならないという事です。私は、道場生の全てを失おうとしても、師を慕う本当の、極真精神を持つ道場生を、育成していきたいという思いでいっぱいになります。そのような意味では、師の事情と曲折を実感できるような、弟子が現れなければならないという気持ちになります。今でも私は困難にぶつかりますし、そのような意味では、共に困難に立ち向かう事ができる弟子が、必要であると思うです。そして、もし師が足らない事があったとしたならば、サポートをしっかりして、世俗的にならないような、高いレベルの道場に育ててほしいと思うのです。
 このような姿勢と要素をもった弟子が、師の身代わりになれるという事です。その事をせずに、組織を愚弄するような指導者になってはいけないという事です。かつて二人の弟子を失ったのです。哀れな弟子である事は間違いないのですが、それでも、私は嘆きに相応しい心を抱いてきました。それ故、弟子達の心を開いて、師と弟子、そして、弟子たち同士が、和する事ができるような道を切り開くことが出来るように願うのです。弟子の多くの気持ちを覚醒させ、新たなる成長の御業に参画する事ができるようにと願うのでした。