2016年9月11日(八段語録2898)
愛情(12)

 日曜日、根白石の畑に直行です。一週間前に蒔いた、大根の芽が出ていました。白菜も、順調に生育しています。そこで、白菜は、間引きしなければならない程、畝に、所狭しと、生育してきているのです。それだけに、新しく畝を作って、移植という事にしました。カブを、三畝植えて、六畝は、白菜の移植場所という事です。曇り空で、時々雨が落ちてくる程度でした。五時間という時間を設定して、草刈、耕運機での土壌作り、そして畝立てという作業を順当にこなしていきました。今日の農作業は、暑くも無かったので、水分もボトル一本だけ用意して、作業を続けました。気持ちが良かったので、一挙の農作業で、汗を流しながら、時間を費やしたのです。大地は動くことも無いので、私の意志でもって、作用が進みます。里山も、温かく迎えてくれるのです。そよ風も、どことなく吹いてきます。人間の複雑な感情と比べて、なんと私にとって素直な自然なのかと、思わずにはいられませんでした。畑に数時間も過ごすうちに、ふと、悪行を重ねる人間社会が気にもなります。罪悪の風呂敷を背負ったまま、人は試練を受けるのです。加害者も被害者も、悔しく思いながら過ごすという事が、自然の中では不可思議です。
 今、保護観察対象者を見守っているだけに、本来の自然のように人間社会が、自然のように本来的であったならばうれしいと思うのです。どの時代、いつを問わず、人間社会に対して、正しい道を、示すことが出来るならばという、意欲は生まれてくるのです。何故ならば、自然は本当に素晴らしいのです。人間も動物ですから、自然の一部と考えれば。同化できないわけはないと、勝手に考えるのです。こうして畑を耕している、私が置かれているポジジョンは、実に本来的な人間に、立ち返っているようです。邪念も悪意も消えてしまいそうです。畑を耕す動作の一つ一つが、汚れなき行動として、自然と戯れているのです。確かに、汗は出てきます。疲れも腰から四肢五体に至るまで、表れてくるのです。それでも、体が痛くなる以上に清々しさが、心を満たしてしまいます。もちろん、極真を歩む修行者として、面目ない自分である事は重々承知しているのです。
 そのような事で、自然と対峙している自分は、面目ないという事を、小さく感じてしまうのです。色々と人間関係で、悔しい思いもあるのです。それでもこのような気持ちは、ゴミほどにも無いという事なのだと思ってしまうものです。畑の耕作の時間は、心の門が開かれ、邪心や肉体の欲求の拘束から逃れて、新しい心、新しい肉体を整えて、自然体でいる事ができるというものです。それでも、畑が逃げ場になってはいけないと思うのです。ますます極真という看板を汚す事がない、八段としての自覚をしていきたいという事です。そのような闘う事に関しての、力を畑からもらって、どんな人間関係でも、正しく捉えて、決して恨みに思うことなく、天が導く方向で、極真の正しい道を歩んでいく事ができるようにと思うのでした。確かに修行道ですから、畑を耕すことは違って、逆境の道を行く事もあるという事です。一生懸命、五時間、無我夢中で費やしました。この何の変哲もない畑と同じように、良き方向に向かっていく事ができる、極真の道を開拓しようと思うのでした。
 畑から返ってきて、妻とよく話し合いました。心が和んできます。妻は真っすぐな人です。決して人の悪口は言わないのです。しかし、私に対しては、直球で裁きます。それも嬉しいのです。