2016年9月9日(八段語録2896)
愛情(10)

 少し、外出する時間に余裕を持ったので、「時すでに遅し」という事で、チラシを十分に配布する事ができず、徒労に終わってしまいました。「しまった」という時間を通過します。考え方によれば、休憩という事でしょう。九月に入って、もう初旬を終えてしまうという事です。目標が高いだけに、一日が深刻になります。喜怒哀楽もはっきりしてしまいます。できるだけ、努力するという事です。地道ですが、それが最善であるという事です。無駄をできるだけ排除して、押し流されないように、しっかり極真会館宮城県本部との絆を持つという自覚が願われます。私自身の本性は、前のめりですので、日々前進を重ねなければ、死んでるように感じてしまいます。恐れ多い気持ちを持ちながらも、道場の発展の為に、何ができるか、何をすべきなのかを、明確にして、収取するという自覚が必要であるという事です。道場生に対して、「来い」と言っている訳ですから、責任が生じてきます。まだまだ自分の甘さを自覚してしまいます。困難な道でも、代表師範という立場で、鎖にしばりつけで、この道を確実に前進させていきたいという思いになるのです。
 さて、極真の道を歩んでみると、身の置き所が定まらないものです。修行の道が、こんなにも遥かに続くという事は、思ってみなかったという事もあります。入門したと当時は、それなりの決心はありましたが、指導者になって、道場を運営するという所までに至るとは夢にも思ってなかったのです。これも運命でしょう。結構苦労が多いものです。極真には、極真の望みがあるようです。その道を歩み続けると、かすかに分かるというものです。それは、極真の道を歩み続けた、修行者でなければ分からない、世界なのかもしれないのです。その修行の中から、無限の喜びと、無限の望みを抱くのです。その心が徐々に形成されているという事です。それは、私自身から始まったものではなく、極真の修行から始まり、修行の終着駅に着くにつれて、心と体に深く納めるのです。それ故、人生として歩んできた土台であるという事に誇りと慕わしさを感じるのです。
 もちろん、創始者の姿は追い求めようとするのですが、私が行くべき方向に関しての、指示は無かったという事です。もちろん、この世にはいないので、伺い知る事も出来ないという事です。自分から始まった極真ではないという事でしょうか。それだけに、自分自身に勧告するわけでもなく、まして、自分の為ではないような道を歩んでいるという事です。その気持ちは、まだまだ続くのであり、極真と共に歩む限り、続くという事です。ここまで来たのですから、この道を離れるような者になる事だけは、しないようにという思いになります。そのような意味でも、自己を捨て、道場生を心配する指導者になるべきであると感じているのです。この時間も極真以外の事は考えていないのです。これからの未来を考えながら、今日一日を歩もうという事です。私に対する要求は、極真魂からの何物でもないのです。約束された明日は何もないのですが、それでもただひたすら歩み続けるという決意です。できれば、言葉で表すことが出来ない程の、大きな基盤ができることを願って、今日も一歩、前進です。極真の道を変えずに、最後まで継続する事ができる代表師範として、道場生に現れることが出来るように、願いつつ、一日を終えようと思っています。