2016年8月27日(八段語録2883)
決断(27)

 公義の人生、そこだけを目指すのです。個人の欲望だけを追求する人達は、結果的に醜くなるのです。それで、公義の人生として、極真の道を究めようとしているので、心の主人になるのです。もちろん、体の主人としても、間違いないようにという事です。最近高畑女優の息子がこの問題で、婦女暴行と障害で逮捕されました。彼の人生は台無しです。このような暴行事件に関しては、私達のグループは厳しいのです。それにしても、極真会館宮城県本部の創設者である、私は、公義の中心にならなければならないという事です。道場の行くべき方向の、旗手にならなければならず、私が道場生の目標になるべきです。そして疲れないように、ブログで訓示を表現しながら、道場生を激励しているのです。結局は、自分を励ましているという事かもしれません。公義の道とは、誰かの命令を受けて、受動的人生を過ごすのではなく、自分自身で忙しい道を開拓しようとするのです。それは勇気を必要としていることです。そして、試練も冒険も待っているのです。
私の場合、行くまいとしても、行かずにはおられない、生き方になってしまっています。宿命の道と、心得ているという事です。確かに振り返れば、熾烈な戦いがあり、試練の矢が飛んできたとしても、前に前進する事だけを、意識したのでした。ただ激励してくれた指導者は、池袋の総本部の創始者でした。倒れそうな時でも励ましてくれました。嘆く場であっても、極真と共に、今日までひたすら、勝利の道を歩むようにしてきたのです。実際の出来栄には、決して満足してはいないのです。今後の道においては、会長と話し合いながら、輝く勝利の未来を夢見ているのです。それが生涯の楽しみであり、運命の道であると思うのです。
 さて、人がこの世に生まれるという事は、必ず使命を背負って生まれていると確信しているのです。その使命は、個人だけを追求するのではなく、公的な使命に責任を負うという事なのです。その為に、私が行道端においては、個人的な事に関しては、弁明するような口を持たないようにするのです。個人を守るための、見る目を持たないようにし、個人の為の耳を持たないようにするのです。私が保護され、守られる道というものは、自分自身が前進する道において、人々が賛同する、染みわたり得る、同調の歩みをするという事です。誰もが行く道は滅びの道です。しかし、歳月に向かって、誰もが行ったことのない人生は、今日生きている世間に対して混乱した環境は収拾しなければならない道なのです。そのような意味では、極真が私の中心であり、極真が私の標的であり、そこでもって保護圏が生まれるというものです。そのような意味では、的中すべき目的に向かって直行です。弾丸のように走っていくのみです。今まで、直行しながら、極真で勝つための闘いをしてきました。またそのように指導を受けたのです。
 そう考えたならば、標的もろともに撃破して、勝利の歓声を残すのみです。公義の人生として、意義を見出すようにという事です。万事の恩賜と愛情が、いつまでも心の底に残ってることが出来るように前進するのです。師範室の配置替えも終え、健康器具を少しは導入して、意欲を高めようするのでした。