2016年8月25日(八段語録2881)
決断(25)
先輩へ「よくもまあグダグダと言ってますね。責任は果たさないのですか?」と言って、先輩の虎の尾を踏んだ後輩が、何も返事も出さず、先輩に失礼な態度を、取り続けるという事ですから、それも、結果的に、指導できなかった私の責任という事でしょう。とんでもない人材を抱え、迷える子羊を増やしている訳ですから、これもまた、私の責任という事でしょう。この組織の開拓をしてきたことは、間違いないのです。この失敗を、自分の組織まで蔓延することなく、しっかり指導者を、育てるという事を、念頭に置いて努力するという事になります。この後輩は、先輩に対して、脅しまでするのです。また、来話しは聞かない、電話は途中で切るという具合ですから、どうしようもないという事です。確か三年前に、私に宣言していました。「百名ぐらい道場生を増やすことは簡単だ」それだけの事をやってきたのだというのです。出来ていない結果に対しては、弁明もしないという事でしょう。ちなみに、先輩は結果を出して、立場を復帰した経歴も持ち主なのです。
さて、今日も新しいひと日を迎えました。朝日の太陽の光が照らす度ごとに、新しい日を願う事になります。光明な太陽の光のような気持ちになります。自分のミッションを思慕しえる、自分自身という事です。そうだからと言っても、毎日の生活で、先輩の私と後輩のあなたの間に、隔たりがあってはならないと思っています。私が行った道は、いずれは後輩のあなたが行くべき道であり、私が闘ってきたことも、後輩が闘う事になるという事です。目標は共に一緒ですから、社会という恩讐と、対決しなければならないという事もあります。私が天から要求されて、闘ってきたことも、歩んでみればわかるのです。途中で、投げだしてはならないという事です。私の知っている人でも、歩みの辛さに耐えかねて、再び会社に戻っていった人が、たくさんいました。それは、生活で、自己中でしかない、愚かな人間であると思わなければ、この道場はやっていけないのです。何から何まで一人の孤独な闘いだからなのです。
ところで、私の行くべき道がどこにあったでしょうか。先輩として留まる場所は、道場の勝利しかないのです。 明日に向かって進んでいく姿が、正しい姿になっているか、誰にも相談することなく、闘ってきたのです。安易に職場についている人物が、私を指導できる立場に立たないのです。何故ならば、その環境に同参する立場に立っていないのです。そして、見本にもなっていないのです。別に仕事を軽視するわけではないのです。ただ役割が違うという事です。会社に勤めて、経済活動をすることは簡単な事かもしれませんが、道場主になる事は出来ないのです。それは、使用人に成り下がるという事です。先輩として歩んだ生命の道は、誰かが、勧告してくれる道ではなかったのです。自分自ら、これを消化していく道だったのです。つまり、受動的な立場に、立ってはならないという事をはっきり、しりしなければならなかったのです、自分自ら誓いながら、生命の力を加えていかなければならない事だったのです。それだからこそ、活気を帯びた歩みが出来たのです。後輩が、先輩の前に、妨害にならないようにすべきです。先輩は、自らの責任で開拓しているのです。