2016年8月23日(八段語録2879)
決断(23)

 どんなに偉い立場に立ったとしても、道場生を誤解すべきではないのです。また、曖昧な事を言って、さも事実のように情報を鵜呑みにしても、指導者としては失格です。実際に確かめなければならないという事です。されに、全体の前で誤解させてはいけないのです。そんな責任者は、最後まで歩み切る事は、出来ないのです。振り返ってみてください。極真の道は、どのような道だったかという事です。稽古に始まって、池袋の本部では二時間以上の稽古を三回してきたのです。一緒に稽古をしていたメンバーが次の日にはいなくなっているという事を、何度も経験したのです。まさに、前を遮る事件が、どれ程多かったかという事です。この峠を越えていくのに、どれ程大変であったかという事です。この道に従ってきた、数多くの人が、数多くの峠の道において、越えることができず、自らを流してしまったのです。私は、その目撃者なのです。
 今日、あなたに対する指導は、いつも謙虚な気持ちで、明日の願いの前に、多くの幼い羊達を、引っ張っていかなければならないという事です。そうして正しい事を、願う生活をわきまえ、知恵と聡明さを、兼ね備えるようにすべきです。寝て起きれば、もう別世界です。昨日の継続ではないのです。一日を送るとしても、習慣的な一日ではない事を、悟るべきです。もう少し、人に話をするときに、善と悪を判断する事が、出来る基準を、鋭く高く備えるべきです。全ての事を考えるにおいても、道場生の事を考え、どんな人に対しても、正しく対応する事が、出来るようにすべきです。特に、今回のような事が、在ってはならないのです。人と共に考え、人と共に行こうという事を、率先すべきです。人生は短いものです。苦労の道を行こうが、自分が生きる生涯が、極真共に生きたという、基準を備えれるべきです。
 ところで、私は、なたが出来ないであろうという、全てを成し遂げてきました。どれ一つとっても、あなたには、真似できないのです。苦労の最先端で闘ってきたのです。一人の若き青年が、この極真に全てを委ねたのです。あなたが道場に来る以前から苦労を、いとわずに歩んできたのです。それを「あなたは、師範として、責任を果たしていない」という表現は不適切です。撤回する勇気も必要です。恵まれた家を投げ打って、この道を歩み続けたのです。選手としては、全国トップのレベルで業績なのです。過去の事を深く話すつもりはないのです。何故ならば私の宝だからです。
 現在は、どうであるかというならば、道場の創設者として、数千人の会員を持ち、黒帯の指導員と、市内に十五の道場を抱えているのです。これは、借り物ではないのです。もちろん、日本全国を指導し、世界を飛び回っているのです。日々闘いは、凄まじいものがあります。道場だけではないのです。地域社会に認められて貢献してるのです。法務省の保護司仲間は、神父や牧師、僧侶が多いのです。そして、その人たちと交流しているのです。このように私が生きる生涯を、道場と共に生きているという、基準をいつも備えているという人生なのです。私から学ぶ事があっても、後輩のあなたが、まだ行ったことのない道を歩んでいることを、知るべきです。