2016年8月18日(八段語録2874)
決断(18)

 事実も確かめずに、曖昧な情報を、確かめもせず、公的会議で、いかにも事実のように話す、責任者がいる事に驚きを禁じえません。その曖昧な話を、責任ある者が、事実のように話すのですから、その問題になった人物は、多くの精神的苦労を、背負うという事になります。責任者とは、一人一人の生命に対して、責任を持たなければならないのです。噂をただ流すような人物が、責任者であることは、許されない話です。
その対象者が、現実には、うつ病という精神障害を持っているのです。その人の心を混乱させ、病気をさらに悪化させ、悪い状況を生み出すような事をしてはいけないという事です。そのような責任者は、組織の意図をしっかり捉えているのでしょうか。全ての人を大切にするという思想を、徹底徹尾持たなければならないのです。一人の人を大切にすることが出来なくては、責任ある者とは、言えないのです。私自身、そのような話を聞いて、どれほど大きな心の痛みが襲ってきたことでしょう。責任者が生活だけの糧にしてはいけないという事です。
 さて、私は青少年の教育に携わって、一人一人を生かす使命であり、そこに希望を持っているのです。百一匹の犬の物語もあります。誰一人として、疎かにしてはならないのが責任者の立場であるのです。どんな人でも、徹底徹尾、愛情を注ぐという、姿勢がなければならないのです。この四十数年の人生、極真を掴んで、青少年教育に闘ってきたのです。多くの人を育てるという事は、たった一人の人をも、大切にするという事なのです。ですから、そのような、姿勢ではいけないという気持ちと、長老のような年齢なので、強い口調で話しました。その責任者は、決して話を聞こうとしないのです。また過ちを正そうともしないのです。そして、最後は、電話を勝手に切るのです。これが責任者の姿かという事です。
 ところで、良き社会を築くという姿勢を、探し出す努力は必要です。どんなに、世俗的罪悪の環境にあろうとも、蓮の花のように、純粋に美しく咲くように努力するのです。飢えたものには当然食べさせてあげなければならず、ぼろをまとった者には、当然着せなければならず、軒先で寝ていれば、当然安らかに寝るところを、準備してあげなければならないという事です。そして、人を不幸に陥れるような、行動を責任者が決してしてはならないのです。私は、このような責任者に対して、恨み深い気持ちになってしまいました。年齢が若いとか、熟年だとか関係のない事です。原点に返って欲しいという事です。傷つく個人がいるとするならば、探し出して、友となる気持ちが必要な事です。限りなく、幼い責任者という事です。
 今、私は、その責任者を糾弾したい気持ちにもなります。人の心を大切にする絆を築き、心を生かしてあげることが、出来なければならないという事です。この事で、私は絶対に許す心は、遠のいてしまいました。私が滅びたとしても、教育者としての心は絶対に失わないのです。これは、私が培った思想であると思っているからです。自分が滅びたとしても人を生かすというのが、家族思想であると思うのです。ただ官僚傲慢になってしまった責任者、可哀そうな気がしますが、そんな人はいらないのです。誰にも必要とされないのです。ただ滅びだけが残っていると断言します。今日はちょっと怒っています。それでも、就寝には、心安らぐように、瞑想に耽るのです。そんな気持ちの一日でした。