2016年8月12日(八段語録2868)
決断(12)

 告別式に参加して、故人を偲ぶという気持ちが、心の中を満たしてしまいました。奥さんに聞けば、血糖値が高かったというのです。集まりの度に、私の持病の事を話していたのでしたが、残念でなりません。それだけに、自分の人生に対しても、最後まで、行くべき道を、行かせてくださいという、気持ちになります。人は誰にでも、最後の時が来るという事ですから、願わくは、世間に貢献する事が出来るようにという、焦燥感も感じてしまうのです。確かに、生きるという事は、苦痛の道のりが絶えず待ち構えているのです。それでも、ここに、両親の愛情によって、貴重にも誕生する事ができ、できれば、両親の願うように、花道を飾る事ができ、きれいな花を咲かせる日々でありたいと願うのです。私の場合、まだまだ生かされているという事ですから、現実的な苦痛、に耐えることが出来るようにという事です。この年になっても、いまだに、越えなければならない峠が残っているのであり、遠く険しい、道のりがある事は分かっているのです。私自身、日々を整えていかなければならないという事実も悟ってきました。そして、一歩ずつ踏み出すことが出来るようにという事です。
 何といっても、まだまだやらなければならない事が残っており、行って倒れたとしても、自分の足跡を踏みしめて、再び立ち返れば良いだけという事です。ふりかえれば、若き日は、引き裂かれるような傷を負うような道を選択しました。オープントーナメントの全日本に何度も出場する暴挙にでたという事です。満身創痍で闘った日々は、疲れる度ごとに、馬鹿な事をしている自分に情けなさを感じたものです。それでも、この極真の道を休む間もなく、稽古を通じて歩もうとするのでしたから、バカ加減につける薬は無いという事です。
 このように幾度も、告別式に参席するようになると、あまり無理をしてはならないという事を自覚させられます。狂ったような道は選択できないようです。これは本音なのです。道場生には、話せない事です。それなりに、自分を守りながらでも、心を爆発するようにしなければならないという事です。矛盾しているようですが、肉体のコンデションがそのような気持ちにさせるのです。そして、できるだけ、理想とする状況に迫っていくという事を思うのです。振り返れば、私は、この道しか歩んでこなかったのです。誰もが注目するような道ではないのです。それだけに、この道を確定させ、最後まで耐え忍んで、満足のいく歩みにしたいという事です。そのように人生を収拾できたら、自分自身に誇れることが出来る、道として歩むことが出来るのではないかという事です。
 告別式が終わって、帰路に就いたのです。故人としての先生には、ご苦労様でしたと心の中でつぶやきました。今後どれだけ、私には人生というタイムテーブルが残っているのか分かりませんが、一生懸命歩むのみです。極真の道場生が、間違いない人生の選択ができるように、モデルとなるような、正しい生き方をしていきたいと思うのです。決して、極真の道から外れることが無いように、健康に留意しながら、全力で走ろうと思うのです。生死の境を目の当たりにしながら、悔いのない人生を、駆け抜けるようにしたいという事です。そんな決意を込めて、家路に着いたのでした。