2016年8月9日(八段語録2865)
決断(9)

 今日も変わることなく、極真の道を歩んでいるという、実感を持って欲しいのです。そして、今も走って欲しいのです。私の道場を離れた指導者の事を思い浮かべると、このグループの理念を疑ったのではなく、指導者同士の、批判合戦からだったのです。極真を受け入れることは出来ても、「この指導者は何だ」という事からです。つまり殺してしまいたいほど、憎くなるという事です。人格を向上させ、教育に携わる指導者が、隣の指導者を、認めることが出来ないという、気持ちになったのです。このような闘いは、私もしました。結局私の場合、尊敬することで解決してきたのです。要するに私の上司にしたのです。苦渋の決断なのです。それをやってのけ、変わることなく、極真の道を歩んでいるという事です。例え、私の上の立場に立った人でも、この道から姿を消した人は多いのです。道場の指導者・道場生でも心で、極真の理念を望み慕っているのですが、現実にはお互いを、尊敬するという闘いの道が、残っているという事を、自覚しなければならないという事です。
 指導者は気をつけなければならないのです。絶えず世の中は変わるのです。そして人の心も変わり、伝統も変わり、周囲も変わり、死んでも守ってみせるといった、愛の心も結婚式から何年か過ぎると、変わってしまうのです。そのような現状に対して、私は、警告を発して闘っているのです。変わらない理念、変わらない姿、変わろうとしても変わらない指導者、そしてその声、その生活、そのような事が、誰からも認められることなのです。また慕われるという事です。そのような事を主張するのです。積もり積もった、心は開くべきで、全てを水に流すのです。ある意味で、外からの試練は耐えられるのです。しかし、自分に付きまとう悪の要素に対しては、耐えられず敗北してしまうという事です。
 そのような意味では、自分自身を謙虚に見つめていくという事は必要なのです。そして、かえって、外からの試練の方が、自分の気持ちを正すという事に、繋がるのです。今は、自分に打ち勝ち、心に刺激を加えて、使命感に燃えて、極真の道を歩む続けて欲しいのです。例え、命令されたとしても有難いと思いつつ、極真の陣営に向かって、突進する事が出来る勇者になって欲しい訳です。悪魔の矢を受けて、倒れる者もいる事も知っています。それでも、今の指導者が敗者として、後退する者達にならないように願うのです。指導者として道場生を指導し、幸福に浸る瞬間があるかと思う反面、何でこのような事を言われなければならないのだという、反旗を翻そうとする心もあるのです。そのような意味では、指導者は、喜びに責任を持ちますが、悲しみにも責任を持ち、闘いにも責任を持ち、無念さにも責任を持たなければならないという事です。
 私の視線は、指導者に注がれています。その注意深い歩みと足跡を、私は注意深く見つめていくつもりです。絶対に、この道は崩れないのです。指導者は注意深く歩むのみです。そして、方向を教えてあげるべき、私であるという事を自覚しているのです。多くの群れを必要とはしないのです。一握りの帰属意識を持つ、指導者で歴史はは築かれていくのです。不平を言うことなく、自らを弁明することなく、後退する指導者が出ないようにと願うのです。一緒についてきてくれた指導者は、この極真の道の主人公なのです。