2016年7月21日(八段語録2846)
渇望(17)

 指導者研修会が田子で行われました。その研修会は、手塚グループが目指す、肉体の練磨と、純粋な精神の育成にありました。そして、その目的は指導者同士が、家族的繋がりをしていくという事なのです。それをしっかりと、礼節でもって築き上げようとするのです。その為に、この手塚グループが目指す目的に、接ぎ木するような研修会になったという事です。あちらこちらを回りながら、本当の道を求めて道場にたどり着いた、指導者ばかりなのです。そして、その一人一人が、この道をライフスタイルとして、悟っていると言って過言ではないのです。こうして、この研修会が、しっかりとした理念で、一人一人が、自信を持って立つことができる、立場に立ってきているという事です。その恩恵を受けている、道場の指導者たちが、ある程度の苦労を介さずに、道場生を本物の侍に育てるために、努力する姿勢を持つ、研修会である事は間違いないのです。
 この研修会は、指導者を分別して、正しいレベルまで引き上げるのです。それと同時に、しっかり指導者を、保護する研修会になっている訳です。この立場に立たせる為に、もう一年以上も続けているのです。その為に苦労している菅野師範、指導者は、何を持って報いていくべきでしょうか。今は、まだ指導者は報いる、何物も備えていないという事であるのです。「自分は相応しくないから、その立場を降ろさせてほしい」などと思うような指導者は、いないと思いますが、そのような事を考えるようでは、何の恩賜にも報いていいないという事でしょう。一生懸命指導する事によって、「自分を引き上げることができるという単純な法則も分からないのか」と言いたくなります。手塚会長の前に、頭を上げることのできない不足なものであるという事も、理解しなければならないという事です。
 手塚会長がここまで導いてくださって、私達を生かすべき責任を持って今まで、手塚グループとして、二十数年に及ぶ歩みをしてこられたのです。それは、私達を栄光の存在として、輝かせようと、必死に歩んでこられた事情がある事も、感じなければならないという事です。本気で全財産を投げ捨てて、足らない私達に望みを持たれ、あらゆる山々を越えてこられたという事です。そのような意味では、自分が退くなどという表現は、耐えてきた会長に、面目が無いという事を感じなければならないという事です。道場生を指導するという事は、自分の骨と、血肉の全てを投入するという事です。自分の骨、自分の肉、自分の血が道場生を成長させると思うべきです。それが、道場生にとって、人格として伝わるのです。甘えてはいけなという事です。そして、指導者は一つの人格を構成して、極真の指導者としての形態を備えて、不変な姿を絶えず示すべきであるという事です。
 もう「自分の一つの細胞までも、道場生の骨と、肉と、血にしていくのだ」という気持ちで、道場生の将来の栄光の為に、捧げていく事が出来たとしたならば、本望であるという気持ちを持つべきです。指導者は神聖な気持ちで、将来の道場生に、影響を与えていくという事を、この研修会で学ぶ出来なのです。時には、背き、時には恨み、指導者としての立場がありながら、放棄してしまう事があったならば、極真精神とは何ら関係のないという事になってしまうのです。私も頑張ります。お互い励まし合いましょう。